第2部 大逃走! 真夜中の美術館
僕は南信彦。いたって普通の高校生だ。運動は特に好きじゃないけど、成績もまあまあ、平凡な毎日を過ごしている。
そんな僕には、紀田杏子という同級生がいる。活発でちょっと男勝りな彼女に、ずっと淡い想いを抱きながら、ちょっとでも近づこうと歴史部に入った。
――あーあ、入らなきゃよかったかも……今はそう思う。
今日もまた、杏子の激しい脅迫……いや、強烈な誘いを断れず、出かけることになった。せっかくの休みだが、どうやら珍しい展示があるらしく、多摩の方にある美術館に行くことになった。
このスーパーの前に朝の7時に集合ということだったが、さっそく少し遅刻された。
「信彦、お待たせー!」
杏子が笑顔で走ってくる。
「杏子! 10分だけど遅刻だよ、誘ったくせにひどいじゃないか」
「ごめんごめん、ノートとかまとめてたら時間かかっちゃって!」
元気に話す彼女を可愛いなと思いつつ、これから待っている地獄に気持ちが重くなってくる。
歴史部の部長を務める杏子は兎に角、歴史あるものが大好きで、美術館とかに行ったら最後、なかなか帰りたがらなくなってしまう。そのせいで、こういう自主的な課外活動に付き合いたがる部員が全くおらず、いつも僕にお鉢が回ってくる。ルーブル美術館なんかに行ったら、不法滞在も気にせず何週間も泊まり込むんだろうな。
「んじゃ、ハトガトンダゾーで買い物してから行こうか。遅刻した埋め合わせであたしが奢る!」
こういう気前の良さも杏子のいいところなんだけどな……。
飲み物とかおにぎりを買って、僕らは電車に乗った。
「やっぱハトガトンダゾーの昆布おにぎり、結構いけるわー!」
呑気に杏子が言う。美術館の話になるとまたウダウダ長くなるから、あのスーパーの話題に切り替えよう。
「あそこって不思議なスーパーだよね。個人スーパーなのに朝早くからやってるから、こんな時間でも買い物できるし」
どう考えても「あのスーパー」の名前をパクっている、うさん臭いとかいうレベルじゃないスーパーなのだが……。
「あと、あそこでバイトしてた友達に聞いたんだけど、店内の音楽は店長の気分で変わるらしいよ」
「へえそうなんだ」
とりあえず食いついてくれたので、僕は話を進めた。どの音楽を流した時の話題を出したら、杏子の話が暴走しなくて済むだろう――そんな恐怖と戦いながら、僕は慎重に話題を選んだ。
まずは……
「ビートルズの『I‘m So Tired』って歌、知ってる?」
「知らなーい」
杏子はロックには疎い。チャンスだ、蘊蓄を詰め込んでみよう。
「『THE BEATLES』っていうバンド名そのままのアルバム――レコードジャケットのデザインから『ホワイトアルバム』って言われるアルバムなんだけど、それに入っている歌なんだ。で、題名通りに、店長が疲れて閉店間際によく流すらしくて、バイトメンバーも余計疲れちゃうってすごく不評だったらしい」
「なにそれー」
「あまりバイトが長続きしないのもそういうところなんだろうね」
「あ、そういえば『お宝探偵団』のオープニングもビートルズの歌だったよね」
しまった、話を急いでそらさないと!
杏子は『探索! お宝探偵団』という番組も熱心に見ている。お笑い芸人らが世界中のお宝を探して回る長寿番組で、歴史好きの杏子がその話になるとまた終わらなくなる。
「あ、ああ、あればビートルズのメンバーが主演した映画のタイトルにもなっている歌だよね。アルバムのタイトルにもなっているんだよ。ポール・マッカートニーのヘフナーっていうベースでの演奏もすごくよくてね――」
親が好きだったビートルズの蘊蓄で、とりあえずその場を凌いだ。
次は……
「シューベルトの『野ばら』って曲、音楽の授業で聞いたことあるだろ」
「ああ、朝6時と夜9時に時報で流れる地方もあるって先生が言ってた」
歴史好きでも、杏子は海外の歴史はちょっと疎いらしく、クラシック音楽もそこまで興味がないらしい。
「そうそう、東京だとそういう時報を聞かないことが多いけどね。トンダゾーの店長さん、忙しくてなかなか田舎に帰れない時があって、その時に『野ばら』を流したらしんだけど、その日に近くにあった工場が全焼して、『うちが野ばらになるなんて縁起でもない!』ってクレームが来たって言ってた」
「バカじゃないの! とばっちりじゃん!」
「だよねー」
何とか話が逸れた、このまま続けよう。
「店長さん、失恋した日に瑛人の『香水』を流したらしいんだけど、近所の子ども達の間で『こんなスーパー求めてないけど』と替え歌が流行っているらしいよ」
「子どもにバカにされるスーパーってどんだけよ。弁当とかはおいしいのにね」
確かに……情けないスーパーとしか言いようがない。失恋からのダブルパンチというのもヘビーだろう。
って、そうだそうだ、杏子が歴史の話に夢中にならないように話を続けないと!
「ちょっと前、クルス・マヤって歌手が流行ったの覚えてない?」
「覚えてないなー」
「その人がプロコル・ハルムの『青い影』って曲をカバーした『青い夜の記憶』って歌を、どうやら奥さんが実家に帰った日に流したらしいよ。ちょっと用事で帰省しただけらしいけど、オーバーだよね」
「ふーん」
……ダメだ、食いつかない。この歌、確か特撮番組の『日常戦士ブンボーガー』でも使われていた気がするんだけど、杏子はそういうオタク方面の興味も薄いからなー。
「この前、レジシステムを新しくしたらしくて、その導入記念に『ライディーン』を流したらしいんだ」
「ライディーン? なんかクラスにそんなアニメが好きだって言っていた子がいる」
「トンダゾーで流れたのはロボットの方じゃなくて、イエロー・マジック・オーケストラの曲の方。で、あからさまに未来的な曲を流したから、悪いやつに感づかれちゃったらしくて、次の日にレジシステムを調べた強盗が入ったらしいよ」
「うわー物騒!」
「だよねーまあそんなノリで曲を流す方も流す方だけど――」
「あ、着いたみたい!」
目的の駅に着いた。話を逸らせたことに安心しつつ、本当の地獄はこれからだと思うと、また胃が重くなった……。
この美術館は、食品会社の社長が自分の屋敷の隣に建てたらしい。屋上の方に変なでっぱりがある、不思議な建物だ。
建物をじっくり見ていた僕の腕を杏子が掴んだ。
「早く行こう!」
「あ、ああ」
完全にテンションが上がっている杏子に引っ張られ、美術館に入った。
入り口で取ってきたテイクフリーのチラシを見ながら、杏子は夢中で話をしてきた。
「最初に行くのは5階ね、『源氏物語絵巻』が展示されているんだって!」
「絵巻?」
本文の方じゃないのか。
「もー歴史部にいるんだったらそういうのも知識を持っておかなきゃダメ!」
「あ、うん」
これまた厳しい言葉が飛んできた。
「『源氏物語』を絵にしたもので、絵巻っていうのは、横に並べてながーい絵を楽しむもののことだよ。まあ正確には『源氏物語絵巻』はいくつもあって、今日見に行くのは『隆能源氏』と言われているわ。平安時代末期に描かれた、国宝にもなっている『源氏物語絵巻』の最古と言われるものなの! 一部ではあるけど、『源氏物語』の文章としても現存している中で一番古いものよ。紫式部が書いた原本は、今はなくなっているしね」
あまり読書をしない僕は、古文の授業で『枕草子』の書き出しを先生が訳した時、「朝と夕方の話をして何がしたいんだ」と思ってしまったほど、こういう文学にあまり興味がない。そもそも、今の杏子の話を聞いて「清少納言の方が『枕草子』の作者か」と思い出したくらいだ。去年の夏休みだって、読書感想文を書くのに「短編なら読みやすいだろう」と思って『蜃気楼』という小説を読んだが、芥川龍之介は何がしたくてこんな小説を書いたのかすら、全く理解できなかった。そんな僕が今回の絵を見ていいのだろうか……なんて思いつつ、とりあえず杏子の機嫌を損ねないよう話を続ける。
「だとすると、その絵巻って、ライトノベルの絵みたいな感じかな?」
「それとは比べるのは、シェイクスピアの戯曲と現代のドラマの脚本を比べるのと同じくらいおかしいことだと思うわ! 絵だけでも歴史的価値があるんだから」
「感覚は何となく分かるんだけど、どうして比べたらダメなのか、あまり上手く説明できないんだよね」
杏子がニンマリ笑った。
「確かにいい疑問ね! あたしも芸術云々からは偉そうに語れないけど、やっぱり『源氏物語』を読む上で知識として持っておくべき平安時代の状況も絵として残しているから、それが歴史的価値を高めているとも言えるわ」
うーん、杏子の考えに納得はできるけど、だからすごいという風には、僕みたいな凡人は思えない。
「あ、そういえば割と最近、『若紫』っていう章の写本が見つかったってニュースになったよね。絵巻の方も21世紀になってから発見されたものもあるし。そういう人が行ったことに対する発見があるっていうのが、歴史を学ぶことの醍醐味だと思うの!」
なるほど、杏子の趣向がちょっと理解できた気がした。これから話を聞き流す……いや、ちゃんと返事をするための参考にしよう。
「で、写本っていうのは文章を書き写したものなんだけど、『源氏物語』の写本で、全部の文章を書き写した一番古いものは――」
上の階に行く間、杏子はずっと『源氏物語』にまつわる歴史をしてきた。本当に話し出すと止まらない……この前も、『徳川家康三方ヶ原戦役画像』という絵に関する家康の情けない話とか、伊能忠敬が地図を作りに全国を回れた理由が天体観測だったこととかを、放課後に延々と聞かされ、先生にも「いつまで学校にいるんだ!」と怒られてしまった。
もう疲れた……ちょっとだけ建物の内部を見てみることにした。
7階建てのこの建物は、4階以上はガラス張りになっているおかげで、美術館の隣にデンと構えられた屋敷が見える。エスカレーターと同じ方向に傾いた三角形が、壁に繋がった柱で支えられ、宙に浮いている。飾りかな? ちょっと不思議なデザインだ。
ふと上を見ると、外で見た天井のでっぱりの、裏の方が見えた。昔は窓ガラスだったのかも知れないが、今は鉄板で覆われているだけだ。
「ちょっと信彦!」
杏子がいきなり怒鳴った。
「話聞いてたの!?」
やばい! ここで変に誤魔化すと怒りに油を注いでしまう……。
「え、そりゃ聞いてたよ!」
気づけばもう5階に到着していた。
「ほら行こうよ、あはは……」
ほっぺたを膨らました杏子を見ないようにして、僕は前に進もうとした。
「あ、あそこだね、『源氏物語絵巻』の展示は!」
展示室の案内を指さし、白々しく僕が先導して展示室に向かった。
結局、杏子に振り回され、僕の休日は夜を迎えてしまった……。
一日中見て回っていた僕らは、トイレに行くことすら忘れていたため、閉館時間直前で行くことにした。
「ふう、もう付き合うのは嫌だなぁ……あれ?」
トイレから出ると、電気は既に消えていた。杏子も遅れて出てきた。
「お待たせ! ……やだ、真っ暗ね」
「うん……まさかもう閉めちゃったとか?」
「うそー、警備員さん、トイレを確認しなかったのかしら」
「とりあえず出ようか」
ここは一階だから、このまま出れば美術館の人に怒られないで済むかも知れない。入り口に向かい、自動ドアの前に立った。
「……開かないなぁ」
下を見ると、内側から開けられるツマミがなく、鍵を使って扉をロックする仕組みになっているようだった。
「あー、これじゃ出られないな」
杏子にそう言うと、渋い顔になった。
「えー、閉じ込められちゃったの?」
「まあそうだね……警備員はまだいるだろうし、出してもらおう」
「そうしようか。ごめんね信彦。あたしが夢中になっていたから……」
こういうことを素直に謝ってくれるのも、杏子のいいところだ。本気で心配してくれる彼女を、改めて可愛いと思った。
「いやいいよ、警備員さんが確認してくれないのがいけないんだし」
インフォメーションの横にある通路の奥に、電気が点いている部屋が見えた。多分、あそこが警備室だ。
「僕たちだけが悪い訳じゃないだから、正直に言おうよ」
「そうだね」
まっすぐ警備室に向かおうとすると――
「あ!」
杏子の腕を引っ張って、僕は壁に隠れた。
「ちょっと、どうしたの?」
杏子がびっくりして聞いてくる。僕は奥のガラス扉を指さした。
誰かが歩いてきて、扉の前に立ち止まった。僕らのことは気付かれてはいないようだ。
警備室のドアがガシャンと開き、警備員が出てくる。
「何しているのかな?」
杏子が聞いてきた。
「さあ……」
警備員は扉を開け、外にいた人を招き入れた。扉が開くと同時に、何かが勢いよく入ってきて、外にいた人が驚いていた。僕らの方に向かってくる。僕は驚いて体を逸らしたが――
「あら、可愛い」
入ってきたのは野良猫だった。人懐っこいらしく、杏子の足へスリスリと顔を擦り始めた。
そんな様子を微笑みながら見ていた僕だが――奥から聞こえた会話に、耳を疑った。
「で、金は持ってきたのか?」
「当たり前だ。さあ、山分けするぞ」
ここからは暗くて見えないが、どうやら男二人組らしい。金? 山分け?
警備室の受付窓の光で、ちらっと顔が見えて――僕は戦慄した。
新聞で見た、ハトガトンダゾーに入った強盗。まさしくあの二人が、新聞に載っていた写真の男達だった。確か三人組で、一人は死体で発見されたらしい。
――嘘だろ……。
こんなところで、あんな奴らに会うなんて……。
ビビりながら、兎に角この状況を抜け出すため、頭をフル回転させた。
「杏子、いいか?」
男たちが警備室に入っていったのを見て、猫と戯れていた杏子に僕は言う。
「ここを急いで出るぞ」
小声だがちょっとドスを効かせた僕の口調に、杏子は驚いたようだった。
「どうしたの?」
「多分あの人たち、結構やばい。急いで出よう」
「やばいって……」
「話は後、ここを出るぞ!」
「出るって、どうやって?」
「あの扉、多分まだ開いているだろうから、見ていない隙に出よう」
困惑した表情をしながら、杏子は猫を抱え、立ち上がった。
「分かったわ」
足音を立てないよう、ゆっくりと奥の扉に向かう。
歩きながら、今僕が聞いた話、新聞で見た話を、小声で杏子に話した。
「……それ本当? やばいじゃん」
「ああ、だから急いで出よう」
警備室の前に来た。明かりが点いた窓の下をしゃがみながら歩き、扉に近づく。
やっと扉の前まで到着した。一呼吸してノブを掴み、扉を開けようとするが――
「あれ?」
「どうしたの?」
杏子が小声で聞いてきた。
「……開かない」
ノブの下にある機械を見ると、ランプが赤くなっていた。警備員がロックをかけていたようだ。やばい、気づかなかった!
僕が焦っていると、杏子が抱えていた猫が、ゴロゴロと咽を鳴らし始めた。
「ちょっと、おとなしくして!」
杏子が猫の頭を撫でていると――警備室のドアが開いた。
――マジかよ!
出てきた男たちは、ジロッと僕たちの方を見た。
完全にピンチだ!
「ほう、お客さんか」
髪の長い方の男が、ニヤリとしながら胸のポケットを漁り始める。
――まさか!
僕は思いっきり男に突進した。
「うおぉぉ!」
ぶつかってきた僕に男たちは驚き、思いっきり転んだ。火事場の馬鹿力に僕自身驚きつつ、杏子の腕を掴んで急いで駆け出した。
「あ!」
杏子の腕に抱かれていた猫は、びっくりして飛び出し、走り去ってしまった。
「急ぐよ!」
僕が杏子の腕を引っ張ると、勢いが付いてしまったのか、杏子は転んでしまった。
髪の長い男が、ナイフを掲げてきた。
「きゃ!」
もう考えている暇はない。杏子を抱き上げ、僕は走り出した。
ドアがいくつも並んだ廊下に来て、扉が開いていた部屋に入った。どうやら倉庫のようで、木材が乱雑に置かれていた。展示物の入れ替えとかで使うものだろうか。とりあえずあの男達から距離を開けたことを感じ、足でゆっくり扉を閉じる。
ぜえぜえ息を切らせながら部屋の隅に行き、杏子を降ろした。
「とりあえず、ここの廊下にはいくつも部屋があったから、ちょっとは時間が稼げるかな」
「……ちょっとびっくりした、お姫様抱っこなんて」
ちょっと安心したようで、杏子は苦笑いする。僕も苦笑いして答える。
「あの状況だったから、つい。ごめん」
「ううん。ありがとう。あいたっ!」
杏子が右足首を抑え、裸足になった。
妙に声が響くのを少し感じた……警察への連絡は場所も考慮しないといけないかも。すぐにでも連絡すべきなのに辛いな……。
僕がスマホのライトで照らすと、足首が赤く腫れている。
「転んだ時にひねって、捻挫しちゃったみたい……」
「ちょっと待って」
僕はハンカチを取り出し、杏子の右足に巻いた。
「本当は冷やしたりしたほうがいいんだけど、内出血しているみたいだし、今は圧迫しておこう」
きゅっと強く結ぶと、杏子が少し痛そうな顔をした。
「大丈夫?」
「ええ、ありがとう」
杏子が座り直した。
「信彦、意外と勇気があるんだね」
「え、いやぁ……」
照れながら頭をかく……が、冷静になって、僕は話を続けた。
「でも、こんなところであんな奴らと会うなんて……確か、髪が長い方が神崎で、警備員の方は山江って、新聞に書いてあったな。あいつらに殺されたのが高野って名前だった気がする」
「ほんと……こんなことになるなんて」
「警備員になって、閉館後のここを金を分けるための拠点にしていたんだろうね。どうにか出られないかなぁ」
「そうだね……」
杏子と話していると、足音が聞こえてきた。
「やば、一旦あそこに隠れよう!」
反対側の隅に木材が重なっていて、隙間があった。
「分かった!」
靴と靴下を拾い、杏子はそっと向かう。上手く歩けない杏子の様子を見つつ、僕は外の足音に注意を向けた。
あまりスペースはないが、何とか二人で隠れられそうだ。扉にも近いから、あいつらが来てもうまくいけば逃げられるかも知れない。
ドンと扉が開いた。男たちが入ってきたようだ。声を殺し、二人で体を縮めた。懐中電灯で部屋を照らしながら、男たちは部屋の内部を探っている。
「電気点けた方がいいか?」
警備員――いや、山江が、もう一人の男――神崎に話しかけていた。
「いや、外に光が漏れて、誰かに気付かれるのはまずい」
懐中電灯のまっすぐな光が、部屋を何度も横切る。
にゃあと声がした。
ドキッとしてそちらを見ると、さっきの猫だった。この部屋に入って来たらしい。男たちも、ふとこちらを一瞬見た。隠れている僕たちの方へ猫が向かってきて、男たちからの視線からは外れた。
男たちの視線は部屋の方に戻った。さっきは暗かったこともあって猫と一緒にいたことまでは見られていなかったようだ。
木材の隙間から男たちを見て、何とかここを抜けられないか考える。チャンスはないだろうか。
そう考えていたとき、杏子がいきなり小さな声を出した。
「きゃ! ちょ、ちょ……今はダメ!」
驚いて杏子に小声で聞いた。
「どうした?」
「だって、猫ちゃんが……ひゃん!」
杏子が思わず声を漏らしてしまった。
足元を見ると、捻挫した杏子の右足に、猫がスリスリと寄って来ていた。狭いところに隠れているから、杏子も避けようにも動けないみたいだ。
「あは、や、やめて……」
「笑うなよ、ちょっと我慢して!」
無駄に動けば物音を立ててしまうし、猫も刺激してしまうかも知れない。杏子には少し我慢してもらおう。
男たちと杏子のことを交互に見て様子を見る。杏子はくすぐったいのを我慢して声を出さないようにしていたが――
「いやぁ!」
杏子が大声を出してしまった。びっくりして猫の方を見ると、杏子の足の裏をペロペロ舐めていた。
男たちがこちらを見た。まずい! 杏子の腕を肩に乗せ、僕は走り出した。
「やろ、ここにいやがったか!」
急いでドアから出て、広間に出た。息を切らしながら周りを見回す。
引っ張る形で連れてきた杏子は、あの猫を抱えていた。
「猫はおいていこうよ!」
杏子にそう言うと、ムッとした顔をされた。
「ひどいじゃん! 猫ちゃんだって助けたいわ!」
まあそうか、足を舐めたりするのは勘弁だけど、あの男たちに殺されてしまうかもと思うと、この猫も放ってはおけなかった。
周りを見回すと、エスカレーターは電気が消えていて、当然今は動かない。二階には、立ち入り禁止のベルト――ガイドポールっていうらしい――が立てられている。奥にはさっきの警備室に続く廊下しかない。自動ドアも開かなかった。
エスカレーターを上ろう。
普通の階段になっているが、エレベーターの方は使えないだろうし、どうせ今、一階で逃げ回っても隠れられる場所があるとは限らない。ここを駆け上って逃げよう。どうにか隙を作って、上の階からもう一度下に降りられたら……。
「とりあえず上るぞ」
「分かった!」
杏子の腕を肩に回し、満足に歩けない彼女を支えながら、可能な限り走ってエスカレーターを上った。
「あそこだ!」
後ろから男たちの声が聞こえた。やばい、杏子を抱えたままなら追いつかれてしまう!
二階まで上って、エスカレーターの上を塞いでいたガイドポールをどかした。ついでに、そのガイドポールを下へ投げつけた。
「いって!」
見事に男たちに命中した。神崎とかいう人の方は頭に当たってうずくまり、警備員の山江は足を踏み外し、ドタドタとエスカレーターから滑って落ちていく。
一階の広間と違い、二階は一本道の廊下にいくつも部屋が並んでいるだけだから、どうにか隠れてやり過ごすしかない。迷わず、目に入った奥にある部屋に進んだ。
少しだけ振り向き、男たちが追ってこないか確認した。
よかった、流石にまだ追いついていないようだ。
さっき見た、宙に浮いた三角形がふと目についた。エスカレーターからだと下側しか分からなかったが、奥の方から横を見ると、三角柱であることが分かる。
そうだ、今はそれどころじゃない! 急いで部屋の中に入った。
音を立てないようにドアを閉じた。スマホのライトで部屋を照らしてみる。入り込んだのは、宇宙に関する写真が並んだ部屋だった。水星の地表、火星から見た地球、木星で起きている台風――宇宙の色々な写真が、大きいなパネルに飾られる形で奥の壁に並んでいる。
「なんか……美術館とは思えないね。どっちかっていうと博物館じゃない?」
小声で杏子に言う。
「確かに、ちょっと驚いたわ、こんな場所もあったなんて」
閉館まで5階をずっと回っていたから、このあたりは全く見ていなかった。僕としては、こういうロマンがある場所の方が見たかったかも……。
なんて考えている暇はない! どうにかして、あの男たちをやり過ごさないと。
焦っている僕とは裏腹に、猫は呑気にあくびをしていた、
この部屋に隠れる場所を見つけよう。『火星から見た地球』の裏が一旦いいかな。
「ここに隠れよう」
杏子を支えながら、僕は隠れた。屈みながら、少し落ち着こうと後ろに寄りかかる。
と――思いっきり二人で倒れてしまった。
「うわ!」
運よく頭をぶつけず、音も立てなかった。杏子が抱えていた猫は、驚いて逃げ出してしまった。
「あーあ……」
杏子が溜息をついた。
よく見ると、寄りかかろうとしたのは壁ではなく、カーテンだった。この部屋は隣と繋がっていて、展示の際の通路になっているようだ。今はカーテンで閉じていたことに、部屋が暗くて気づかなかった。
スマホのライトで部屋を照らしながら後ろを振り返ると――
「きゃ!」
杏子が大声を出しそうになり、ぐっと口を塞いだ。僕も驚いた。目の前にあったのは、ツタンカーメンの顔だったのだ。
見回すと、ここはレトロな人形や仮面を展示している場所のようだった。古そうなフランス人形や、髪が伸びそうな日本人形が並んでいる。
「こんな状況でこんなの見るのは……」
杏子が苦笑いしながら言った。
「だね……とりあえず、あいつらはどうしているかな? 隠れるなりしてやり過ごそう」
僕の提案に杏子が頷いた。
でも――この部屋、さっきの部屋と違って、人形が並んでいるだけで大きな展示パネルとかはなく、隠れられそうな場所がない。
ドアはちょっと先に見える。そこからうまく出られたら、やり過ごせるかも知れない。
「歩ける?」
杏子に聞くと、ニコッと笑顔で返してくれた。
「大丈夫! ちょっとは我慢して走れる」
少し安心しながら、僕は杏子を支えながら歩いた。
――ん?
何か嫌な予感がした。
後ろをみると、小さな日本人形が三つ、等身大の大きな人形らしきものが二つ、オペラ座の怪人の仮面が四つ並んだ棚があった。
そっと近づこうとすると、急に大きな人形――いや、人形にまぎれていた男が動き始めた。
――こんなところに隠れていたなんて!
ハッとして、咄嗟に僕は杏子をかばい、襲ってきた男を避けた。あいつらも知恵を絞ってこんなマネをしてきたんだ。
「逃がさねえぞ」
その男――神崎が僕らに向かってくる。杏子の腕を肩に回し、僕はドアから出た。
切れそうな息をこらえ、エスカレーターに向かった。
エスカレーターは一つしかない。二階の他の部屋に隠れるのも、今後ろにあいつらが迫っている中ではリスクしかない。
急いでエスカレーターを下り、一階へ向かう。さっき倉庫があった廊下を走り抜け、更に奥の「関係者以外立ち入り禁止」と書かれている部屋に入った。
急いで入ったが、そこは机がない殺風景な部屋だった。窓もなく、奥に続くドアと、消火器があるだけだ。
ミスったかもしれない……。
しかし、男たちの足音は近づいている。時間はない!
焦りながらも、僕は頭をフル回転させた。
「杏子、一旦あの部屋に隠れよう」
「えー、でも……」
杏子が口ごもった。杏子の腕を掴み、僕はドアを開けた。
スマホのライトで前を照らすと、何かに反射されて僕らを照らした。
「わ!」
目の前に手を掲げながら見ると――
そこは、鏡がたくさんある部屋だった。江戸川乱歩の小説みたいな場所だ。一体何だろう、ここ?
杏子を支えながら進んだ。
奥の壁は、何故か丸く凹んだような形をしていた。よく見ると、手前から奥の方に向けて倒れる形で傾いている。博物館でもないのに宇宙に関するものもあったことといい、この美術館は本当にヘンだ。
「信彦、どうするの? もう疲れた、どうにか出ないと……」
杏子が呟いた。
「そうだね……ただ、あいつらの隙をつかないと」
そう言って、部屋の鏡をぐるっと見回す。
突然、部屋の明かりが点いた。僕と杏子は慌てて振り向く。
「フン、こんなところにいたか」
電気のスイッチに手をかけながら、神崎が僕らに言う。
――追い詰められたか!
その時だった。
「うわ!」
山江が驚いて腰をついた。神崎も少し驚いていたようだが――
「バカ野郎!」
そう叫んで山江の頭をぶった。
今だ!
僕は並んでいた鏡を思いっきり倒した。杏子も便乗する。
「うわ!」
大きめの鏡が男たちに倒れる。よく見ると、丸い形をした鏡もあり、男たちの頭にゴツンと当たった。
ふと、ドアの方へ何かが走っていった。猫だ。ここにいたのか。
山江は、丸い鏡に猫が写ったのにびっくりしたらしい。最後の最後まで、あの猫にお世話になったようだ。
兎に角チャンスだ。ドアへ向かい、この鏡の部屋を出た。
消火器を持って、僕はさっきの警備室の方に向かう。足を引きずりながら杏子も後ろを付いてくる。
力の限り消火器を投げつけ、ガラス扉にぶつけると、ガラスに大きな穴ができた。その周りのガラスを蹴り飛ばして穴を広げた。
「行くぞ!」
「分かった!」
杏子の肩を抱き、僕はそこから脱出した。
こうして、僕たちの長い夜は終わった。
警察署に飛び込み、男たちのことを伝え、事件は解決した――ように見えた。
一週間後、僕らは事情聴取で警視庁に行った。
応対してくれたのは新命大太という警部補で、親切で穏やかな口調で話を聞いてくれた。
「まあ災難だったな。でもお手柄だ」
「いやあ」
「偶然ですよ偶然」
僕と杏子は、照れながら頭をかいた。しかし、新命が浮かない顔をする。
「そのまま豚箱にぶち込めたらよかったんだけどな……」
「……家に来た刑事さんに聞きました。神崎は逃げてしまったそうで」
僕たちが通報した後、山江の方は捕まったそうだが、神崎は山江を囮に逃げてしまったらしい。
「君たちに受けた怪我もあるし、すぐに多摩周辺に警戒態勢を取ったから、おそらくあの美術館周辺から遠くまでいけないだろうが、警察として、君たちの保護はしっかりしたくてね」
新命警部補は「この警視庁で一旦保護してほしい」と捜査一課長に申し出て、今日はわざわざ家までパトカーで迎えに来てくれた。
「実は三日前、美術館の近くで死亡事故があって、所轄がちょっと手薄になったと言い出したんだ。全く、神崎を捜索するパトロールで別の仏さんを見つけるとはね」
「ホントですか! ……立て続けですね」
杏子が溜息をついて言う。
「申し訳ないが、俺は神崎を追うために美術館の方へ行くつもりだ。当面、刑事をつけて保護するように話をしておくから。ここで説明を受けてもらえるかな」
僕たちが頷いたことを見て、新命警部補は去っていった。
あれだけ言われていながら、警視庁を抜け出し、ここにまた来てしまった。
どうしても捕まえてやりたいという謎の気合が、僕の心に沸き上がってしまい、こっそりここに行くと杏子に宣言してしまった。杏子も、あんな目に遭って捻挫も完治していないのに、杏子はテンションが上がってしまい、捕まえてやろうと言ってきたのだ。
なんだかんだでもう夕方になってしまった。
「勢いで来ちゃったけど、あたしたち、何かできるかな……?」
杏子が言ってきた。
「そう……だね」
二人で黙ってしまった。本当に、どうしようかねぇ……。
この橋の先に警察署はあった。あの時は、日が昇りそうな時間に急いで走っていったっけ。
そんなことを思い出しながら、僕たちは橋を見ていた。
杏子が橋の下を指す。
「あそこ行ってみる?」
こんな時間なので、橋の下の影は濃くなっていた。
「……行ってみよう」
ちょっと離れたところにある階段から下に降り、僕たちは橋の下に向かった。
ちょっとだけ差し込む夕日で、橋の下の様子が分かった。ここには不法投棄されたラジカセや箪笥などの粗大ごみが置かれていることが分かった。モラルのない人はどこにでもいるんだな。
そう思っていたとき――箪笥の裏から人影が立ち上がった。
「うおお」
――神崎!
僕は杏子を引き寄せ、体を横に倒した。神崎が持っていたナイフが肩をかすめ、服を切り裂いた。
刑事さんもいない中でここに来たのは、やはり迂闊だった。僕らがコケにした神崎の怒りもやばいだろうし、興奮しているこいつから逃げ切れるか、自信がない。
――絶体絶命だ……
そう思った時、いきなり神崎は大勢を崩し、倒れた。
ナイフは手から滑り落ち、杏子の近くに転がってきた。杏子が素早くナイフを拾い上げる。僕は、粗大ごみの中にあったラジカセを拾い上げ、神崎の頭に投げ飛ばした。
「うが!」
見事にラジカセは命中し、神崎は倒れて気を失った。
「……やったね!」
杏子がウインクした。僕も親指を立てて笑顔を見せる。おあつらえ向きに延長コードもあるから。縛り上げておこう。
ふと、また何かが動くのが見えた。それは、杏子の方へ向かっていく。
「あら、あなたね」
杏子がそれを撫で始めた。あの時の猫だ。箪笥の上に足をかけた神崎は、この猫に気付かずに躓いたんだ。
ゴロゴロと咽を鳴らした猫を見て、僕も安心で溜息をついた。
駆け付けた新命警部補に、僕らはこっぴどく怒られ、また事情聴取を受けることになった。
三日前の事件の後、警察が現場検証も終えたことを見た神崎は、灯台下暗しの如くあそこに隠れ、機会を伺って逃げるつもりだったそうだ。
「全く、君たちの保護を手厚くしようとした俺の身にもなってくれよ……」
溜息をついて、新命警部補は部屋から出て行った。
「はあ、本当に凄い体験だったね」
僕がそう言うと、猫を抱いていた杏子の目がキラキラと輝き始めた。
「ホント……でも、こういう体験をしなければ分からない気持ちっていうのも分かった気がする!」
おいおい……「歴史好き」から「人の行い好き」になったのか……それじゃ幅広すぎるし、どこまで付き合えばいいかも分からないぞ。
「もっともっと、私たちは知るべきことがあるのね! あー、明日は学校の図書館で調べものよ。次に行く歴史展も調べなきゃ!」
当分はまた、杏子に振り回される日々が続くんだろうな……そう思って、僕は溜息をつく。
そんな僕らのことに構わず、猫は呑気に欠伸をしていた――
二人で話していたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。あの声って……?
部屋に入ってきた人に、杏子が声をかけた。
「あら、明日香ちゃん。恵理子ちゃんも一緒じゃん!」
髪の長い男と一緒にいたのは、僕らの同級生――ペギー明日香と中田恵理子だった。
「杏子ちゃんに、信彦君じゃない! どうしたの?」
「いやあ、実は……」
事件のことを話すと、隣の男が話始めた。
「なるほど、美術館での事件に巻き込まれたのが二人の同級生だったとはね」
その男は、腕を組みながら僕らに話しかけた。
「美術館の中の話、聞かせてもらえるかな?」
〈〈第2部 完〉〉
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《作者からの挑戦》
美術館で派手なドタバタ劇が繰り広げられた中、海城夕紀は完全密室について重要な情報も得ることになる。
それは一体何なのか推理して、世にも奇妙な密室トリックを暴いて欲しい。
さあ、いよいよ本作のメイントリック「溶接密室」の謎を解こう!
箸休めに、重要な情報が隠された特別編も読んでみてね
『名探偵・海城夕紀』