第1部 疑惑が潜む屋敷にて
12月の寒くなった時期、私は友人の相談に乗った。
それが、あんなに悲しい事件になるなんて、その時は想像もしていなかった。
つくばエクスプレスの浅草駅から出た。この駅、メトロとかが通っている方の浅草駅からは結構離れているのがちょっと不便だけど、スマートフォンで動画を見て降り過ごしても秋葉原に行けるので、なんだかんだよく乗っている。
私が連れてきた同級生は、きょろきょろとその道を見回している。「あんな身分」になったのだから、にぎやかな下町に来ることもないのだろうか。口をブーっと鳴らしながら、その同級生――中田恵理子が言ってきた。
「こんなところにあるの、あなたの言う事務所?」
「もうすぐだよ。そうだ、トンダゾーでなんか買ってから行く?」
私――ペギー明日香は、ある探偵事務所に興味を持って入り浸っている。あの探偵はいつも金欠で、差し入れを持っていくのが日課になっている。トンダゾーこと「ハトガトンダゾー」は変哲もない個人スーパーなのに、そこで買ったものを差し出すだけで露骨にモチベーションが変わるようだ。自分で言うのもナンだが、私もあの探偵よりは懐が温かいので、それで手なずけるようにすれば依頼もしやすい。
「そうだね。やっぱ手土産を持っていくのは庶民の礼儀だよ」
嫌味っぽい言い方ではないのに、恵理子の言葉はちょっと上から目線で話している感があるのが、友人として切ない……。
ちょっと凹みながら、トンダソーで一通り買い物をして、目的地に向かった。
綺麗とは言えない自動車修理工場。杖を突いて仕事をしている店長に挨拶した後、二階への階段を上り、小さな看板を指さして恵理子に見せた。
「ほら、ここ」
――海城探偵事務所
そう書かれた事務所のドアは、あまり綺麗に磨いていない木製のものだ。ノブを回すと、相変わらず建付けの悪さでギシッと音を立てて開いた。
……ん? 電気も点いていない。
「夕紀さん?」
返事がない。
ふと、奥のデスクを見て恵理子が絶叫した。
「キャァー!」
私からの差し入れを完食し、探偵の目は綺麗に輝き始めた。
「いやあ、先週コッペパン食ってから久々でさー。ほんと死ぬかと思った!」
能天気に話すこの貧乏男に、恵理子はひたすら目を丸くしていた。私も文句を言っておくことにした。
「いい加減その貧乏性どうにかしてよ」
「そんなこというなよぉ……」
そう言って、探偵は食後の一服――の代わりに吹き戻しを加え始めた。恵理子の目が丸から点になったことを感じた。この男、あまりに金がないからと少し前に禁煙し、そのストレスをこれで解消するようになったのだ。
イライラしながら、私はペットボトルのお茶を投げて渡した。
「彼女が前に話した依頼人。食べ終わったんだからちゃんと仕事してよ!」
ゴボゴボとお茶を飲み干し、探偵はこちらを見た。
海城夕紀――冴えないこの男は、かれこれ10年、この浅草で事務所を営んでいる探偵である。髪をだらしなく伸ばし(切る金がないからだが)、喪服しか持たないが、仕事になれば鋭い目に変わる。それこそ、いつもの貧乏が嘘のように、真実を探る男の目になるのだ。
「依頼内容、聞かせてもらえる?」
椅子に座らせた恵理子の目を見て、夕紀は問いかけた。こんな男だが、実は彼、結構な難事件を解決してきた、本当の名探偵だ。父がオーストラリア人である私は、高校生になってから日本で暮らすようになったのだが、入学してから間もない頃、ひょんなことがきっかけでこの名探偵と出会い、彼の話を聞きに来るようになった。
そんな彼の目は、初対面の人にも強い力を感じさせるらしい。少し安心したような顔になって、恵理子は話を始めた。
彼女からの依頼は、ある男の死体が発見された事件の調査だった。
多摩に屋敷を構えた男、中田礼二。学生時代から事業を始め、20歳で冷凍食品メーカー「中田フーズ」を巨大企業に仕立てた、やり手のビジネスマンだ。田舎の貧乏な家庭から大企業のトップに成長したサクセスストーリーが持て囃される一方、同業他社への圧力も噂され、「黒い男」としても写真週刊誌の標的になっていた。
そんな彼は三日前、死体で見つかった。家の近くの橋から転落し、頭を強く打って死んでいたという。
「中田礼二か……ニュースでも彼の死は話題になっていたな。人通りが全くない訳ではなさそうな橋の下で見つかったらしい」
腕を組んで聞いていた夕紀に、恵理子は体を乗り出して話始めた。
「警察は事故死が妥当と見ているそうですが、私には納得できなくて……それで、明日香から聞いたあなたに、真相を解明して頂けないかと思いまして」
「ふむ……彼のことを慕っていたんだね」
「まあ……出会ったばかりの彼を失って、私としてはこのままスッキリしないで事件が終わるのが嫌なんです」
「……ん?」
夕紀がふと顔を上げた。
「出会ったばかり?」
「そうです。馴れ初めは半年前で……」
「……あの、てっきり俺は君が娘さんかと」
「違います」
恵理子がきっぱりと返事をした。
「じゃあ、久しぶりに会った親戚か何かかな?」
「先日、親から合意をもらって彼と籍を入れました」
「……はい?」
「だから、私が妻です」
今度は夕紀の目が丸くなった。
私が頭をかきながら解説した。
「まあ縁あって、あの人とお付き合いすることになったそうなの。この子、所謂“枯れ専”ってやつでね」
「まあ、バカにしてるの?」
恵理子がまた、口をブーっと鳴らして突っかかってきた。
「そうじゃないよ」
恵理子をなだめつつ、私は夕紀に話しかけた。
「まあそういう恋愛もあるってことで……」
「いやぁ、資産あるおじさんと結婚できるのも最高ですよ」
夕紀の目が点に変わってしまった。ついでにフォローした私も。
「偶然原宿で遊んでいたときにナンパされてぇ、若い人と余生を過ごしたいって言われてぇ、結婚することになったんです! プロポーズの時にもぉ、指輪とかじゃなくてぇ、オシャレしたい時に着けなってティファニーのオープンハートをくれたんですよ! そういう貰っても困らないものをプレゼントする気持ちにグッと来ました! 贅沢したいとかじゃなくてぇ、豪邸でのんびり暮らしているっていう、それだけで楽しいっていうかぁ、でも同級生はひがむんですよぉ、そういう生活」
「いや、まあ、うん」
夕紀は髪をかきながら話を続けた。
「で、君は何故、真相を知りたいんだ?」
力を入れた目で恵理子が夕紀を見た。
「だって、このまま終われないじゃないですか!」
学校でも、ナチュラルにお嬢様発言をする恵理子だが、こういうときはきっちりと骨のある言い方をする。その潔さというか、素直なのが分かるリアクションが、どこか憎めない子でもある。
「お願いです。結婚したばかりの夫が、こんな形でいきなり亡くなって、悲しいというより……私の気持ちが宙ぶらりんなんです。だから……真実を徹底的に知りたい」
ピュウと音がした。夕紀が吹き戻しを伸ばしたようだ。
あの鋭い目で、夕紀は恵理子を見つめた。
「はっきり意思があるところが気に入った。今の話を聞いて、俺もモヤモヤするものがたくさんあるからな。依頼を受ける」
吹き戻しを机に置き、夕紀が立ち上がった。
「ところで」
夕紀はふと恵理子に問いかけた。
「君の趣味なのかな? それとも部活かな?」
「ん?」
私は夕紀に尋ねた。
「まさか気づいたの、恵理子は中学時代に吹奏楽部だったこと?」
「なるほど、ずっと練習していたから癖になっていたんだね」
夕紀が腕を組んで語り始めた。
「恵理子さん、よく口をブーっと鳴らしているだろう」
「ああ、そうなんです」
恵理子が目を見開いた。
「今でもトロンボーンを吹いているんです。その時の癖がいつもよく……」
「出ちゃうものなんだろうね。マウスピースに息を吹き込む金管楽器って、慣れるためにそういう練習をするらしいから、何となく君の様子を見て思ったんだ」
感心した。楽器に詳しくない私には分からないことだ。
恵理子も、いきなり魅せた彼の推理に驚いたようだった。
「すごい! 最近の友達はサックスも金管楽器だって思っている人も多くて話も合わないから、高校からは部活はやっていなくて」
「え、サックスって金属で出来ているでしょ?」
思わず私が口を挟んだ。夕紀が答える。
「木管楽器だよ。クラリネットとかと同じで、サックスはリードっていう小さな木の板を振動させて演奏するんだ。ほら、息を入れる部分、細くなっているだろう」
ちょっと恥ずかしい勘違いだった……。
「でも安心しました。本当に名探偵なんですね!」
「いやあ……」
恵理子に褒められ、照れくさそうに夕紀は頭をかく。私も、この依頼がうまくいきそうで、少し安心した。
中田礼二の屋敷は、二つの棟に分かれている。片方は、屋上に不思議なでっぱりがある建物。現在は中田が所有する貴重なコレクションを展示する美術館になっているらしい。そしてその奥が、恵理子が今度暮らす予定だった豪邸である。
もう正午だが、相変わらず寒い。凍えながら屋敷の方へ歩いていくと、男の人が屋敷の上にカメラを向けていた。
「どちら様ですか?」
恵理子が尋ねる。
「ああ、ここの若奥様ですね。連れの方は?」
「それよりあなたは?」
ちょっと嫌味っぽいこの男に、恵理子が少しイラついて言った。男も顔を少しひきつらせたようだ。
「私はこういう者で……」
恵理子へ差し出した名刺を覗くと、「毎朝新報 仁藤涼」と書かれていた。
「中田社長が亡くなったと聞きましてね。色々お話しを聞きに来まして。31年前のことも合わせて、調べていたんです」
31年前のこと?
「今は話すことはありません。帰ってください」
恵理子の毅然とした態度に、フンと鼻を鳴らした。
「私は、真実を調べたいだけです。社会的不正は正しく責任を追及し、人が亡くなったことを面白がったりもしません。中田フーズが裏の顔を持っているとしたら、それを正しく追求したい、それだけです」
さっきの嫌味っぽさが減って、凛とした態度で仁藤は言ってきた。
「それは、今ですか?」
ジロッと睨んだ恵理子に舌打ちをしながら、仁藤はそのまま去っていった。
「当分はあんなのも色々来るんでしょうね、ま、今は調査調査」
恵理子が夕紀と私の方を向きなおし、話始める。
「礼二さんは煙草も吸わないし、酒も付き合いでしか飲まない人だったから、こういう豪邸を建てることしか興味が沸かなかったみたい」
「へえ、でも素敵な家ね」
美術館の方を見て、夕紀は腕を組んでいた。
「夕紀さん、一応当日のこととか、詳細に話しておいた方がいいかしら。警察にも話はしたんだけど」
「ああ、そうだな。聞いておこう」
恵理子は話を続ける。
「最後に彼を見たのは、亡くなった日の夕方だったわ。確か17時くらい。私は予定があったからそのまま別れたんだけど、ちょっと散らかった自分の部屋に入っていってね。ストーブも点けていなかったから、これから何かするつもりだったのかも」
「散らかってた? 中田さんは最近、社長を引退しようとしていたって聞いたけど。何か仕事?」
私から質問した。ここに来る前に夕紀から新聞を見せてもらっていたが、還暦を迎えた中田社長は、この屋敷で余生を過ごす予定だったらしい。
「今度この近くの商店街でイベントがあるから、礼二さんもそれに協力していたのよ。社長業を引退した分、そういうことに参加したいって思っていたらしくて。そのイベントも結構気合入っていたわ。ポスターとかポケットティッシュとかも作って配っていたし、部屋もそれで埋まっていたから、あんまり整理されていなかったの。彼の部屋の鍵も私はもっていなかったし、掃除は家政婦さん任せだったから、私がその手伝いをすることもなかったんだけどね」
「なるほど」
夕紀が話始めた。
「その後亡くなったのか」
恵理子が頷く。
「ええ。さっき言った用事っていうのが、引っ越した後の荷物を引き取りで、私は実家の方に帰って泊まっていたんだけど、翌朝、見回りをしていた警官の人が川の下に彼が落ちていたのを見つけたって連絡が。確か夜中の3時くらいに発見されたって」
「そうか……」
夕紀が腕を組みながら考え始める。私は尋ねた。
「仁藤って人にも、何か聞いた方がよかった?」
「いや、別にいいさ」
夕紀は全く気にしていないようだった。
「でも、調べた方がよくない?」
ちょっと強情になって言ってしまった。もう少し夕紀には力を入れてもらいたいという気持ちが強くなっていた。それでも、何故か夕紀は冷静だ。
「彼は多分、礼二さんの事件のことにそこまで詳しくないさ」
「へぇ、なんで分かるの?」
夕紀がまた、腕を組んで話し出す。
「仁藤って人、自分の取材のポリシーをいきなり言ってきただろ。真実を正しく追求したいって」
少し考えて、夕紀の言わんとすることがちょっとだけ分かった気がした。
「礼二さんのことを下世話に調査したいとか思っている人間の言葉にしては、割と青臭いというか、言葉巧みではないと思わないか。ただ恵理子さんからの情報が欲しいのなら、世間から中田礼二社長に向けられている目線について『説明しろ』って言ったりとか、外堀を埋めるようにして、話さざるを得ないような状況にもっていくと思う。彼自身は純粋に事実を集めて取材していたんだろう。大した記者だよ。少なくともこの事件については、警察も知らないような情報はもっていないと感じたから、特に追いかける必要は今はないと判断した」
言われてみれば――確かにさっきの会話は、そのあたりで少し違和感があった。夕紀はやはり、ボーっとしているようで人間の本質もしっかり見ている。焦っていたのは私のようだ。
「おー、海城君じゃないか」
後ろから声が聞こえ、私は振り向いた。
「あ、新命さん」
手を振りながら、その男が近づいてきた。
新命大太、警視庁捜査一課の警部補だ。夕紀とは私よりも長い付き合いだそうで、彼が巡査部長への昇進試験に合格した頃に夕紀と出会い、事件解決に貢献したことが縁で、警部補に昇進した後も交友が続いているという。
「中田礼二さんの件、本庁も出向いているんですか?」
夕紀が尋ねた。
「お、君は中田社長の件で来たのか。いやあ、実はあの美術館の方で強盗殺人のホシが見つかってね、その捜査をしていたら、所轄に中田社長の件も聞いただけだよ」
「強盗殺人ですか。また物騒な……」
私がそう言うと、恵理子が補足した。
「そうなの、うちの美術館の警備員がその犯人で、先週は美術館で事件を起こしたらしくて。だから、実を言うと美術館の方は、それからずっと臨時休業中なの」
「しかも、まだホシは逃走中でな」
「そうなんですか!」
驚いた私に、少し笑顔を見せながら新命警部補は言う。
「まあある程度このあたりは所轄で調べているし、厳戒態勢も取っている。夜道を女性一人で歩いたりしなければ、急に襲われることはないだろうがな」
「新聞でも出ていたな。明日香、お前はそういうの見ないのか」
夕紀に指摘され、ちょっとドキッとした。
「いやあ、私はほら、最近ブンボーガーを見るくらいしかネット使ってなくて……」
最近WEB配信されている特撮ドラマ『日常戦士ブンボーガー』に私はハマっていて、学校でも休み時間にスマートフォンでよく見ているのだ。海城探偵事務所に行こうとしてつくばエクスプレスを乗り過ごしてしまうのも、大抵それが原因である。そしてそのまま、終点の秋葉原でブンボーガーのグッズを買いあさってしまう、というルーティンを繰り返してしまう。
「相変わらずのオタクだな。少しは世間に目を向けろよ」
夕紀に呆れられ、ちょっと凹んだ。新命警部補が話に入る。
「まあまあ。で、明日香君も連れてどうしたんだい?」
「ああ、実は彼女の依頼で……」
私から、恵理子の依頼の話を説明した。
「そういうことか。まあでも、現場の状況から考える限り、事故死だろうということで所轄でも捜査しているそうだ」
「新命さんから何か進言できないんですか?」
私が尋ねると、新命警部補は頭をポリポリかき始めた。
「事故死なら所轄の仕事になる。本庁としては、強盗殺人の関連で、中田礼二の周りも念のため調べるくらいしかしない予定だ。ヒラの警部補で口を出せる範囲も限られるだろうな」
不満気な顔で新命警部補を見つめる。恵理子も、あのブーと口を鳴らす癖を見せた。
そんな私たちに構わず、夕紀は尋ねた。
「事故死って言われている根拠は何なんです?」
「ふむ、所轄に頼んで、その現場に案内しようか。そのとき、話をしよう。資料をもらってくるまで、この屋敷の中で話でもしていればいい。家政婦さんはいるよ」
そう言って新命警部補は去っていった。恵理子が夕紀の方へ向き直す。
「昔からこの家に仕えている人がいるの。話聞いてみます?」
「そうだね、行ってみよう」
家政婦さんが火を点けたマッチを暖炉に入れ、応接間を暖めてくれている。案内された広い部屋のソファーに座り、私たちは家政婦さんから差し出されたハーブティーを頂いた。
「高山菊枝と申します。40年ほど、この家に仕えておりまして」
恵理子が笑顔で説明を始める。
「礼二さんの前の奥さんの時から、お部屋の掃除とかもしてくれているんだけど、今度は料理も教えてもらう予定でね。菊枝さんの料理は本当においしいんだから」
「まあ奥様ったら」
素敵なマドモワゼルは、頬を赤らめ、手で口元を隠した。
「さて。海城夕紀さん、といいましたか。私は何をお話しすればよろしいでしょうか?」
菊枝は夕紀の方へ顔を向けた。
「まず……今回の件との関連はまだ不明ですが、恵理子さんから依頼を受けた時から気になっていたことがあるんです」
「気になっていたこと?」
私が口を挟んだ。
「ああ、礼二さんの、前の奥さんのことだ」
菊枝の眉が少し動いたことを、私は感じた。
「こちらに来る前に新聞も読み返したのですが、31年前、確かこの屋敷でお亡くなりに……」
「ええ、警察からは自殺だと聞きました」
驚いた。そんなことがあったなんて。さっき仁藤とかいう記者が言っていたのもこのことだったのか。
「娘さんもいらして、奥さんが亡くなる前に……」
「その通りです。その奥様――裕子奥様は、お病気だったお嬢様――恵様を亡くされ、気を落とされていまして……ただ私としては、今でもあまり納得できていないのです」
「どうして?」
恵理子が尋ねた。夕紀がこちらを見て言う。
「警察が自殺と断定した理由でもあるんだが、それでもおかしい状況だったそうでね」
「どんな状況だったの?」
私の問いに、菊枝が奥歯を噛みながら答えた。
「恵お嬢様の部屋で、所謂密室という状態で亡くなっていたんです」
「密室?」
私と恵理子が、同時に反応してしまった。夕紀が胸ポケットから何かを出し、指さした。その時の新聞記事だ。
「遺体発見時、鉄製の扉と窓枠は、内側からハンダで溶接されていたそうだ」
「ハンダで、溶接……!?」
恵理子が声を漏らした。
「ニコチン毒を注射して亡くなっていた裕子さんの横には、ガスバーナーも置いてあったらしい」
「何それ! 単純に鍵が掛かっていたんじゃなくて……」
私の問いに、夕紀は鋭い眼差しで答える。
「そう、極めて完全に封鎖された密室状態だったそうだ。驚くくらい完全に、にね」
「そんなことがあったなんて……」
肩を落とした恵理子に、菊枝が話しかける。
「私も旦那様も、恵理子奥様にはあまり積極的にお話しする気にはなれませんでして……でも、確かに他殺ではありえない状況だとは思いますが、それでもこんな状況にまでして自殺されるというのも……」
「確かに腑に落ちませんね。あそこまで完全な密室状態にしてまで自殺するのか――」
夕紀が立ち上がった。
「この事件と今回の事件が関わっているのか、そのことも含めて、今回のことを色々調べてみたくてね」
菊枝に笑顔が戻った。
「分かりました。ここの全ての部屋の施錠も私が担当していますので、何なりとおっしゃって下さい」
「ありがとうございます。では――」
夕紀が言いかけた時、玄関が開く音がした。
「菊枝さん、いるか!?」
入ってきた男は、オールバックで頭を固めた中年だ
「暑いな、屋敷の廊下も暖房が効きすぎているんじゃないか」
男はつかつかと菊枝に近づいた。恵理子が立ち上がって男に向かう。
「ちょっとあなた、人の家に勝手に入ってきて何なんですか!?」
「そういう君は誰かね? 私は川蝉食品の人間として、礼二さんが亡くなったと聞いて急いで来たんだよ」
「川蝉食品?」
思わず聞いてしまった。私の疑問に夕紀が答える。
「関東を中心に展開しているメーカーだな。僕らは礼二さんの事件を調べている者です。そんなに急がれてどうしたんです?」
夕紀を無視し、男は菊枝を見る。
「営業部長をしている戸上啓介です。中田フーズさんには、お世話になっていましてね。で、その人たちは?」
戸上のその言葉に、菊枝がこちらに目線を向けてきた。夕紀が静止し、自分たちが探偵であること、恵理子が礼二の妻であることを説明する。
「ほう。これだけ若い女性を妻にねえ。営業妨害をしてくる男は、やはりやりますね」
商売敵であろう会社の人が何の用だろう――嫌味、というか強情な態度を隠さないこの男に、私はムカッとする気持ちが抑えられなくなった。
「一体何なんですか、人が亡くなったばかりだっていうのに」
戸上が面倒くさそうな顔をしてこちらを見た。
「私は営業部長として、中田フーズのことを色々調べた上で言っているんだ。口出しはしてほしくない。尤も、社外秘の情報もあるから君たちには何も言えないがね」
嫌味な笑顔をこちらに向けられ、恵理子がまた口をブーっと鳴らした。
菊枝が戸上に話しかける。
「申し訳ございませんが、ご主人様は亡くなったばかりですし、どうか恵理子奥様のお気持ちも察して頂ければと」
「こっちは警察にアリバイも聞かれたりしてね。ちょっとムカムカしているんだ。今まで中田フーズの不正を調べても、寸前のところで証拠を掴めなかったりしていた中でこんなことになって、腹の虫が治まらん」
「お気持ちはお察し致しますが、業務につきましても、家政婦の私は関与しておりませんから、お話しできることは……」
「で、あなたにはアリバイはあったんですか?」
夕紀が厳しい口調で聞いた。
「警察にも話した、君たちに言うことでもなかろう。警察に聞くのなら勝手にすればいい。今は抗議しに来ただけだ。ま、部外者もいるようだし、抗議は今度にすることにして、菊枝さんには会社の資料とかを頂くとするか」
菊枝が困った顔で返事をする。
「それは会社を通じて頂けますか? 私が勝手にできることではありません」
「だったらここに居座るまでだ」
さっきまで夕紀が座っていたソファーに、戸上がドンと腰をかけた。私はこっそり夕紀に問う。
「どうする? まさかあの人が礼二さんを殺したとか?」
「いや、いいんじゃないか。俺たちからあの人に話を聞きたくなった時に、ここにいてくれたらまた聞けるし」
「えー、いいの?」
夕紀が小声で私に言う。
「礼二さんの事件は、他殺だと仮定したら明らかに突発的犯行だ」
気づかぬ内に推理が少し進展していた。しっかり聞いておこう。
「人が通らなくもないような橋で、計画的に殺人を犯す訳がないだろ」
「ああ、確かに」
「そういう意味でも、仮にあの人が犯人だったとしても、俺たちみたいな来客もいる中で菊枝さんを襲ったりとか、そんな大胆なことはしないだろう」
こそこそと話していたら、来客のチャイムが鳴った。菊枝が私たちに軽く会釈してから向かった。
菊枝を伴って新命警部補が入ってきた。
「海城君、所轄から資料ももらったぞ。おや、そちらは?」
戸上に気付いた新命警部補に、夕紀がことのあらましを説明する。
「ほうほう。まあ、戸上さんに質問がある場合は、所轄から話があるかと思いますので」
「十分話しましたよ、面倒なくらいにね」
また嫌味を込めた戸上の言葉に口をへの字に曲げつつ、新命警部補が私たちの方を見た。
「どうする? 事件現場の橋へ行くか?」
「そうしましょう。菊枝さん」
夕紀が菊枝に声をかける。
「はい?」
「戸上さんのおもてなしでもお願いします。さっきのハーブティー、とても美味しかったですし」
戸上がフンと鼻を鳴らした。菊枝は「かしこまりました」と言ってキッチンへ向かった。
「菊枝さんには申し訳ないけど、捜査は進めたいし、ね。帰ってもらいたいなら後から警察を呼べばいいし、あの男のことは好きにさせておこう」
小声で夕紀に言われた恵理子は、肩を落としながら軽く頷いた。
その現場は、屋敷から少し離れた、商店街のすぐ近くにあった。
「海城君のことは警察でもよく知られていてね。所轄もちょっとは協力して、発見時の写真とかも貸してもらったよ」
「流石ですね、名探偵さん」
ニコニコしながら恵理子が言った。照れながら夕紀が頭をかく。
「いやぁ、褒められてばっかで照れくさいなー」
そんな様子に呆れながら、私は新命警部補に話しかける。
「当日の礼二さんの足取りとかも分かっているんですか?」
「ああ、そのことについて、君たちに会ってほしい人がいてね。お、ちょうど来たようだ」
橋の向こうから、白髪が目立つ丸眼鏡の老人が歩いてきた。
「あなたたちが、探偵さんと恵理子さんの同級生かね?」
老人の問いかけに夕紀が答える。
「海城夕紀と申します」
私も会釈した。
「ペギー明日香です」
男は腕を組んで話始めた。
「井沢剛といいます。商店街で駄菓子屋をやっておりまして」
新命警部補が説明を始めた。
「以前中田社長の元で、会社立ち上げの手伝いもしていたそうだ。ご自分の駄菓子屋を立ち上げられた後も、井沢さんは中田社長と付き合いがあったそうで、当日も商店街のイベントの話し合いをされていたそうだ」
「ええ、彼が亡くなる前に会ったのは私が最後だそうです」
井沢が肩を落として話始める。
「全く……急な話で驚きましたよ」
夕紀が新命に言った。
「新命警部補の資料や、井沢さんのお話と併せて、色々と確認してみるのもいいでしょうね」
「そうだな。井沢さん、礼二さんとの関係、改めて教えて頂けますか?」
「そうですね、彼との出会いもお話しした方がいいかな」
井沢が腕を組んで話始めた。
「元々は、新しい食品販売の方法で商売をしたいと、二歳下で学生だった中田に協力して事業を起こしたんです。そこからすぐに企業は大きくなりました。ただまあ、私はこういう町で地域と触れ合うような仕事をしたかったから、中田フーズが軌道に乗った後は、彼の好きにするようにと言って離れました」
「中田フーズを離れた時のことを詳しく聞けますか?」
礼二と何かあったのか――私は気になって井沢に聞いてみた。丁寧な物腰で彼は答える。
「別に喧嘩別れという訳ではないですよ。やりたい方針が違ってきて、若かった礼二自身がやりたいこともあっただろうし。何かあれば協力するから、互いに好きにしようと私が申し出て。彼も、私を快く送り出してくれて。その後、礼二はあのお屋敷を建てました。彼も気に入っていましたから、ここを」
「そうなんですね」
夕紀が言った。
「ええ。なんでも寒い時期に冬の大三角を見るのが、裕子さんとの楽しみだったそうで。東京から離れた方が空気も綺麗で、星空がよく見える場所を探せると思いますが、ここなら都心からもそこまで離れていないから、仕事もしやすいですし」
「裕子さんともお知り合いなんですね」
私が口を挟む。
「ええ、私が中田フーズを離れたあと、ここの近くの喫茶店で働いていた裕子さんと私が知り合いまして、礼二に紹介したんです」
「なるほど」
夕紀が頷いて言った。
「事件当日、礼二さんと会った時のことも聞けますか?」
私からの質問にも、井沢が親切に答えてくれた。
「警察にも話した通りですが、私が駄菓子屋を閉店した後、店と連結している私の住居で商店街のイベントについて、出店とかポスターについて話して、その後で酒も少し飲みました。話し合いを始めたのが18時から、終わって彼が帰宅したのはちょうど0時でしたね」
「私と離れた後ですね」
恵理子が言う。
「恵理子さんが最後に彼に会ったのは確か夕方でしたよね。警察にも聞きました。彼の屋敷から駄菓子屋まで、歩いて大体20分くらいだから、あなたと別れた後、準備をしてすぐ来てくれたようです。閉店時間ちょうどくらいに彼が来たこととか、日付が変わったことを時計で見て『もう遅いから帰った方がいい』と言ったりしたから、時間もよく覚えています。尤も、彼は帰宅した後も少し外に出たと、警察には聞いていますが」
何も変哲のない、単なる橋と、単なる川だ。向こう岸には商店街の入り口が見える。私たちが来た方も、まばらだが民家が建っている。
「やはり、そう人通りがあってもなくてもおかしくない場所ね」
「ああ。やはり誰かが計画的に礼二さんを呼び出して突き落とした、というのは考えられない」
新命警部補も頷いた。
「だから所轄も、事故死という方向で調べているようだ。夜中だから目撃証言も全く得られなかったようだが。或いは通りがかりの人間と揉めたりしたか、ということも考えられなくはないかな。この手すり――橋にある手すりのことを欄干というそうだが、見てくれ」
新命警部補が指さした。
「大体高さは80センチってところか。揉めて突き落としてしまったとか、酔って歩いていたら車にぶつかりそうになったとか、そういう弾みで転落したとしてもおかしくはない高さだな」
貼られた看板にも、「乗り出して遊ばない!」と書かれていた。確かに、子どもがふざけて乗り出したら危ないくらいの高さだろう。橋から下の川までは20メートルくらいで、下の川原に降りるには、ちょっと離れた場所にある階段を使うようだ。
新命警部補が私たちに聞いてきた。
「下にも降りてみるか?」
夕紀は首を横に振った。
「今行っても、確認できることはないでしょう」
彼の姿勢に積極性を感じられなかった私は、つい突っかかるように言ってしまった。
「やけに消極的じゃない」
ちょっと困った顔をしつつ、夕紀は答えた。
「仮に他殺で誰かが突き落としたとしても、下まで行ったとは思えない。何度も言うように、全く人が通らないとは限らない場所だからな。俺たちとしては、死体発見時の写真とかを見せてもらって、その時の状況を確認した方がいいだろう」
なんだ、ちゃんと推理していたんだ。急かした私が悪かったようだ。夕紀が新命に改めて問う。
「新命さん、事件発生直後の写真は見せてもらえますか?」
「ああ、いいよ。礼二さんの遺体の周りとか、発見直後の礼二さんの自室とかも、鑑識で写真に収めていたそうだからね。あ、遺体の写真もあるから、気を付けてね」
「大丈夫です。恵理子は……」
私が恵理子に聞くと、彼女は首を横に振った。
「いえ、もしかしたら、私が知っていることからお話しできるかも知れないですし」
気丈な恵理子の返事に頷いた新命警部補は、持っていた封筒を開き、写真を見せてくれた。
私は遺体発見時の写真を覗き込んだ。
うつ伏せに倒れた礼二が、その写真に写っていた。礼二の脇には万年筆が落ちているようだ。写真の隅に赤い紙のようなものも写りこんでいる。
腕を組んで考えている夕紀に私が聞いた。
「万年筆は転落した時に落ちたのかな?」
「多分そうだろうな。井沢さんとの打ち合わせの時に使ったりしたのだろう」
「ええ、使っていました。結構長い間使っているようでして」
井沢の補足に恵理子も頷いた。
「私も、家でよく使っていたのを見たことがあるわ」
夕紀は腕を組んだまま推理を進めているようだ。更に写真から質問する。
「この赤い紙は何だろう?」
私の質問に答えてくれたのは井沢だった。
「ああ、これは商店街のポスターだろう。別れた時、ジャケットの棟ポケットに入れて帰ったことを見ています。確か私も持ってきていたかな……お、あった」
井沢がポケットからポスターを出した。紙の周りが確かに赤い。ポスターの真ん中には、青い法被を着た男が載っている。ちょうど一週間後のイベントの日付も書いてあった。
「ちょっと泥臭い写真だが、商店街の雰囲気が伝わるだろうと礼二に言われて、こんな感じで仕上がりました」
新命警部補が警察手帳を開きながら答えた。
「うむ、落下の時に落ちなかったのは、胸ポケットにあった屋敷の全ての部屋の鍵だ。あと、遺体の下には手帳もあった。その手帳には、当日の井沢さんとの予定も書いてあったぞ。他にも、戸上啓介と三日後に会う予定だったことも」
「戸上さんと?」
私が質問した。
「まあ俺は、手帳に書かれたその人が、さっき会った人だとは知らなかったよ。捜査に関わっていないから初めて会ったしね。聞くところによると、例の礼二さんの噂について、色々説明を求めていたと、所轄からの調べに答えたそうだ。三日後、つまり本来なら今日会う予定だったことも認めている」
新命警部補が、礼二の自室の部屋を見せてくれた。
「こっちも見るかい?」
「遺体発見後、菊枝さんにお願いして部屋の鍵を開けてもらって、部屋を何もいじらずに写真を撮らせてもらったらしい。そのときにストーブは点けっぱなしだったそうだ。聞いたところだと、礼二さんは少しだけ部屋を外す際は、ストーブを点けっぱなしで出かけることもあったそうだ」
「ちょっと危ないですね」
私がつぶやくと、新命は額をかいた。
「まあ不用心と言えば不用心だが。井沢さんもさっき言ったが、夜中、商店街のコンビニとかに行こうとして、1時間弱離れるくらいなら大丈夫だと思ったのかもな。何か飲み物でも買いに行こうとしていたとか、そう考えられている」
「そういうことはよくあったわ。面倒くさがりなのかも知れないけど、ちょっとだけ外すときには部屋を暖めたいからって。エアコンもそうだけど、点けるときに一番燃料を消費するっていうのも理由らしいわ。食品会社での管理の経験からそう考えていたそうよ」
恵理子も補足するように言った。
「そのあたりが、警察でも事故と考えた理由なんですね」
私は頷き、恵理子に声をかけた。
「恵理子の言っていた通り、あまり整理されていないわね」
「そうね。この前の日に会った時は、本も整理されていたし、マッチとか万年筆の箱とかもしっかり整理されていたのに」
写真をじっくり見た。見づらいけど、確かに机に置かれた万年筆の箱や、窓枠に置かれたマッチも写っている。
黙っていた夕紀が、組んでいた腕をほどいた。
「なるほどね」
「何か分かりましたか?」
恵理子に問いかけられ、心なしか夕紀の顔が少し暗くなった気がした。
「ええ、大体のことは」
「もう!?」
私は驚いて大声をあげてしまった。
夕紀は冷静に答える。
「あの夜、ここで何があったのか、ある程度検討はついた。恵理子さん」
夕紀が恵理子の方を向いた。
「真相がどんなものであっても、しっかり聞いてくれますか?」
夕紀の深刻な問いかけに、恵理子は頷いた。
「ええ。私の依頼で、夕紀さんは捜査してくれているのですから」
夕紀が頷いた。
「分かりました。もう少し確認したいことがある、屋敷に戻りましょう」
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《作者からの挑戦》
海城夕紀は、中田礼二の死についてはある結論を出したという。
その結論とは何か――読者にも、それを導く手掛かりは十分に提供されている。
礼二が死んだ夜に何があったのか、是非推理して欲しい。
では解決編へ!
『名探偵・海城夕紀』