第1部 疑惑が潜む屋敷にて 解決編
井沢も伴って屋敷に戻ると、菊枝が迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。まだ戸上さんはいらしていますよ。お相手もできず、私はずっと洗い物をしていましたが……」
そのとき、後ろから声がした。
「皆さんお揃いで」
仁藤だ。また何か話を聞きにきたのか。
屋敷に入った時に曇ったメガネをシャツで拭いていた井沢が、仁藤の方を見た。
「お、君はもしかして……」
仁藤もハッとしたようだ。
「もしかして井沢さん? ええ、涼です。随分ご無沙汰していまして」
「大きくなったなぁ。恵ちゃんが亡くなってすぐだったか、引っ越したのは」
夕紀が仁藤に問いかけた。
「あなた、こちらに住んでいたのですか?」
「ええ。子どもの頃、惠とはよく遊んでいてね。井沢さんのお店にもよく顔を出していました」
彼のことを悪く思いすぎていたようだ。私も仁藤に質問した。
「じゃあ、ここに仁藤さんが顔を出したのも、単に取材するためではなく、礼二さんの事件を聞いて……」
「そういうこと。裕子さんも亡くなって、礼二さんもあんな形で亡くなるなんて、個人的にも胸の中でモヤモヤするものがあってね」
「それでは、仁藤さんにも一緒に来てもらいましょうか」
恵理子の思わぬ提案に、私は少し驚いた。恵理子は気にせず、話を続ける。
「礼二さんは色々な噂を立てられた人ですし、実際に全く潔癖な男だったと言えないのではと私も思っています。そんな中で、仁藤さんや井沢さん、或いは戸上さんのような方にも、真実を見てほしいんです。それこそ、世間からの疑惑の目にも、しっかり応じる形で。夕紀さん、お願いできますか?」
少し考え、夕紀は頷いた。
「恵理子さんがいいのなら、私の推理を皆さんに聞いてもらいましょう。菊枝さん」
「はい」
「礼二さんの部屋に、案内して頂けますか」
礼二の部屋は、まだ整理整頓はされていないようだった。写真で見た本とかは、警察の捜査の影響でさっきの写真と位置は少しずれたようだが、大体は同じくらいのようだ。
「やれやれ、今から何が始まるんだ?」
戸上が面倒くさそうに言う。ぐるっと部屋を見回した夕紀は、ふとこちらを向いた。
「思った通りだ。皆さん、中田礼二さんの事件について、真相をお話しします」
仁藤がふと顔を上げた。
「事故だと聞いていましたが、真相とは一体……」
「これは事故ではありません。突発的な殺人事件です」
皆が言葉を失った。夕紀は言う。
「恵理子さん、三日前に礼二さんと別れたとき、確かストーブは点いていなかったんですよね」
「ええ、そうですけど」
恵理子が戸惑いながら答えた。私を見て夕紀は言った。
「ちょっと見てみな」
夕紀が窓の方へ行き、覗き込んだ窓の下を見ると、少し水が溜まっていた。
「この窓、濡れていたのかな?」
夕紀が窓ガラスを指でこする。窓は曇っていて、夕紀の指の痕が残った。私の方を向いて夕紀は言った。
「冬場、窓が濡れてしまうことはよくある光景だ。メガネが曇るのと同じ理屈で、こうやって結露してしまうからね。中学校の時、理科で習っただろう。冬場に火事が起きやすいのは、気温が低いほど空気は水分を吸収できなくて、湿度が低下するからだって。井沢さんもさっき、眼鏡を拭いていたな」
皆のいる方へ、夕紀は向き直した。
「戸上さんも言っていた通り、この屋敷の暖房設備はかなりしっかりしていて、廊下も暖かくなっています。その分、空気も温まって、外の乾燥した空気との気温差が生じ、事件当日もこうやって窓は結露していたのです」
「それがどうしたんです?」
仁藤が質問した。
「あ、もしかして!」
私が口を挟む。
「だとしたら……ストーブが点いていたのはおかしいかも」
「なんでそう思う?」
夕紀の質問に私は答えた。
「もしかして、マッチは火が点かなかったんじゃ」
「その通り」
夕紀が、置いてあったマッチを箱の側面でこすった。しかし、マッチの先はボロボロと崩れてしまい、火は点かない。
「この結露のせいで、ここに置かれていたマッチは湿気ってしまったんだ」
部屋の写真を皆に見せ、夕紀が言った。
「事件直後、この写真の通り、ストーブには火が点いていました。マッチが湿気っていた上、礼二さんは非喫煙者だったそうですから、ライターも持っていなかったはずです。まあ、応接間にはマッチがありましたが、恵理子さんと別れてから井沢さんに会うまでが1時間、井沢さんの家まで大体20分かかるという短い時間に、わざわざそのマッチでストーブを点けようとしたというのも、少し考えづらいでしょう。マッチが湿気っていたことに気づいてすらいなかったとするのが自然です。17時に恵理子さんと別れ、井沢さんと18時に会うまでに、火を点けなかったと考える他ないのです。では、恵理子さんと夕方に別れた際は点いていなかったストーブは何故、点いていたのでしょうか」
私は少し考えて言った。
「犯人が点けた、とか」
「そうさ」
夕紀が腕を組みながら答える。
「ストーブを点けて鍵をかけておけば、恵理子さんたちの証言も併せて、少し外出した際に亡くなったと見せかけることができる。長時間部屋を離れたと思われる場合よりは、疑いの目が向かないだろうという計算だったのだろう」
夕紀が組んでいた腕をほどいた。
「しかし、それは逆に、犯人の首を絞めることになったんだ」
「どういうこと?」
私の質問に答えず、夕紀はある人物を見て言った。
「礼二さんの鍵は胸ポケットにあった。川の下に降りるにも時間がかかる中で、突発的に突き落とした人間が、あの橋で誰かに目撃されるリスクも背負って礼二さん鍵を奪い、ストーブを点けた後で胸ポケットに改めて入れたとは考えられない」
菊枝は、顔色一つ変えず、夕紀の話を聞いていた。恵理子が少し震えた声で言う。
「夕紀さん、まさか……」
「菊枝さん、礼二さんを殺害したのは、あなたですね」
低い声で、説得するように夕紀が言った。
「部屋の鍵をかけ、警察にも知られてしまったことが、あなたのミスでした。応接間のマッチなどを使ってストーブの火を点けたのでしょうが、この部屋に鍵がかかっていた以上、それができたのは、この屋敷の施錠を担当しているあなただけなんですよ」
「嘘でしょ……菊枝さん!」
恵理子は悲鳴のような声を出した。
「菊枝さん、本当のことを話してくれ」
井沢も説得する。菊枝は、静かに話し始めた。
「そうです。あの夜、私は旦那様を橋から突き落としました。まさかあの人は……あんなことをしていたなんて……」
「一体、何があったんですか?」
私が聞いた。
「井沢さんとお話しされた後、私は旦那様に呼び出されました。夜空を見ながら、彼に言われたのです。『今になって後悔している、君には真実を話そう』と」
恵理子はじっと菊枝を見つめたままだった。菊枝は話を続けた。
「旦那様はこう言ったのです。『恵が死んでから、裕子との関係もギクシャクして、警察にもバレないようなトリックで、裕子を殺した』と」
「やはり……あの件は殺人だったのか!」
仁藤が夕紀に言った。
「俺もずっと気になっていて、今日も調べようと思っていたんだ」
「外から写真を撮っていたのも、例の部屋の窓を撮影して、調査の参考にしようとしていたんですね」
私は仁藤と出会った時のことを思い出した。確かに、屋敷の上の、丈夫そうな窓のある部屋を撮影していたようだった。
「『自慢の密室トリックは永久に屋敷の秘密だ。でも、それでも、今は正直に君には話したい』旦那様はこう言いました。でも……私は、身寄りがなかった時、裕子奥様に見初められ、この屋敷で働かせて頂くことになった私です。今になってそう言われて、心の中で抑えていたものが、急に吹き出してくることを感じました」
「それで、思わず突き落として……」
恵理子は、涙をこぼし、呟いた。菊枝の瞳からも、静かに涙が零れた。
「刑事さん、行きましょう」
菊枝に言われた新命警部補は、制するように手を上げる。
「私は飽く迄、本庁から別件の捜査で来た人間です。所轄の方へ、自分で向かわれてください。あ、案内はしますよ」
新命警部補がこんなことを言ったのは、彼女の逮捕を「自首」にしたかったからだろう――
こうして、この悲しい事件は幕を下ろした。菊枝と新命警部補の背中を見ながら、夕紀は恵理子に言った。
「……なおさら、あのトリックは暴かなきゃ、だな」
私の方を向き直し、夕紀は言う。
「手伝ってくれるな」
「もちろん!!」
私は力強く答えた。
「明日香、もしかして……」
恵理子の問いかけに、私はウインクして答える。
「礼二さんが仕掛けた超完璧な密室殺人、これから暴いていくわ!!」
「ほう、僕も協力できるなら」
仁藤も笑顔で言った。
「ありがとうございます。俺たちの仕事は、どうやらこれからが本番のようだな」
腕を組み、夕紀は屋敷の上を見上げた。そう、あの完全密室の事件が起きたあの部屋を――
〈〈第1部 完〉〉
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『名探偵・海城夕紀』