ゴジラ以外も傑作ばかりだよ!
東宝特撮から「表現」を学ぼう!
2023年に『ゴジラ-1.0』が公開され、『シン・ゴジラ』以来となる新作特撮版ゴジラ映画としてヒットを飛ばしました。筆者としても、まさか初代『ゴジラ』より前の時代の日本を舞台にするとは思わなかったこともあってそこだけでも惹かれたし、浜辺美波ちゃんの相変わらずの可愛さ(おいオッサン)など出演者の方々の熱演もとてもよく、特撮界の活発化をひしひしと感じました!
ちょっと話は逸れますけど、2023年には『グリッドマン ユニバース』『GAMERA -Rebirth-』といった「特撮作品のアニメ化作品」も積極的に発表されました。「アニメかよ」という意見もありましたけど、この2作品は「ミニチュアなどをリアルに感じさせる”質感”」をもアニメで表現していたと言える仕上がりとなっていました。勿論、東宝がCGも駆使して戦後間もない世界観を『-1.0』の「特撮」で表現できたことは、予算がかかる特撮を東宝の会社規模だからやれたという面も含めて、それらのアニメ化とは趣を変えて「ストレートな特撮の意義」に改めて踏み込めたとも言える訳です。
海外での映画版とか『ゴジラSP』とか、ゴジラのアニメ化はそんなに出来が良くなかったからな……
このように特撮が盛り上がっている今こそ「表現としての意義」も追求すべく、日本の特撮の先駆者でもある東宝が生み出した昭和の特撮作品を、改めて見直してみたいと思いまして、今回は筆者が是非分析したいと考える作品を3つ、ピックアップしていきます。
そもそも「特撮の神様」円谷英二は、飛行機に憧れ、『竹取物語』を好み、子どもを愛した人でした。そんな中で「モノを別のモノに見せる」特撮で大きな夢を表現した訳で、「特撮の意義」も一通り示してしまった表現力を持っていたのです。それを「観点」から解析する意味も、かなり大きいのではないでしょうか。人の手で作るミニチュアや着ぐるみの演出から、人形劇だとか時代劇だとかを超えたリアリティを追求していた歴史を見直してみて下さい!
『空の大怪獣 ラドン』―細やかでリアルな映像
初めての総天然色怪獣映画で、九州を舞台に縦横無尽に飛び回るラドンを見た、当時の観客の感動は計り知れぬものがあります。モノクロで核の在り方も描いた初代『ゴジラ』とも比較しながら、この作品について分析していきます。
この映画の魅力として、博多天神や阿蘇山などの「セットの細やかさ」を「それだけで魅力的だと言える」ことがあります。創作物において「リアルであること」は「魅力的な映像であること」とは必ずしも一致はしません。シニカルな話ではありますけど、「すごくリアルだろ!?」と言って「あっそ」くらいにしか思われない部分があるのも、当然と言えば当然です。それは筆者みたいな特撮オタクが見るのか、或いは特撮を全く知らずに特撮に触れたのかという、受け手の知識の範囲でも決まるはずですが、ラドンはその翼だけで「西海橋がひん曲がる」「瓦が吹っ飛び、車は横転炎上」といった描写を見せていて、ミニチュア特撮を「細かく描いただけ」で「納得の大迫力」を生み出していました。那珂川の氾濫なんかは、スケール感を再現し辛い「水」でありながら、本当に水が派手にスプラッシュしているような細かい描写となっており、筆者も好きなシーンです。
原爆の脅威を代弁していた『ゴジラ』の特撮面について分析すると、よく昔の特撮作品について「技術的に仕方ないけど、どうしても古臭い」と言われますが、「1954年当時の」建物はバッチリ再現されていたことは間違いないでしょう。それを無視してリアリティのレベルを指し図るのはおかしい部分はありますし、実際『ゴジラ』についてはそのあたりも世間で評価されていると筆者は思っています。勿論、古臭いのが嫌という個人的な気持ち自体は否定されるものではありませんが。その歴史を踏まえれば、総天然色の『ラドン』で「原爆の申し子ゴジラのようなフィクションの迫力」を外れた「純然な巨大生物」のリアリティに踏み込んだ中、上記の細やかさを見せつけて納得させた円谷英二の手腕の凄さが今の視点でも分かると思います。
なので『ゴジラ』は「戦後間もない当時の世相」から「原爆の脅威という社会性」「特撮の原点にふさわしい丁寧な演出」を今でも考えさせられる作品であり、『ラドン』は「映画をカラーで公開できるようになった」中で「特撮らしさをふんだんに盛り込んだ細やかさ」「演出・演技から感じるリアリティ」を楽しめる作品だと言えるでしょう。
一方、やはり『ゴジラ』も『ラドン』も、円谷英二の技術力に加え、東宝映画全盛期の予算規模に支えられた作品なので、映画が斜陽化した60年代後半くらいから特撮の制作体制に課題が出てきたのも事実です。70年代のゴジラ映画は「着ぐるみ造形などの出来の悪さ」「映像の使いまわし」で非常に評判が悪いのは否めません。また、「リアルなだけでは評価してもらえない」のはまさに『84年版ゴジラ』がそうだったと、筆者は厳しい論評を向けています。この頃のゴジラの特技監督を務めていた中野昭慶氏は、そんな苦しい状況で観客を楽しませる工夫は怠っていなかったのですが、『日本沈没』の大ヒット以外ではちょっと貧乏くじを引いていたとも言われます……低予算ながら『ラドン』にも負けない細やかなリアリティを生み出した『平成ガメラ三部作』に熱狂してゴジラを嫌ったファンもいたし、筆者自身も『ガメラ2 レギオン襲来』なんかは「特撮を知らない人」にこそお薦めしたい「リアルで大迫力な傑作」と認めます。冒頭でアニメの話題を出しましたが、円谷プロでも、1979年に予算や表現の都合で『ザ☆ウルトラマン』というアニメを一年制作した後、状況を整えて『ウルトラマン80』で気合いの入った特撮を魅せた事例もあります。筆者が「特撮の意義」を分析することで、その部分でも制作スタッフの苦労をねぎらう意味も生まれるはずだと思っています。
『海底軍艦』―迫力とロマンの塊
男の子なら、やっぱりでかい万能戦艦なんて見るとドキドキする時はありますよね。陸海空を突き進む戦艦・轟天は東宝特撮メカの最高峰に位置する人気メカです。
『ハワイ・マレー沖海戦』『太平洋の翼』など、円谷英二の「ミニチュアで映画を撮れば自在に空を飛べるんだ」という夢は、特に戦争映画で積極的に描かれていて、そのヒコーキヤローっぷりが有川貞昌氏ら弟子の尊敬を得ていたのです。蛇型怪獣のマンダが出てきたり、ムウ帝国という悪役を立てスパイ風の物語も組み込んだりと、特撮らしい要素も取り入れつつ、大きなセットでの破壊描写や絵の具を使った爆風表現・ムウ帝国女王の悲しい執着心といった娯楽性やドラマもふんだんで、フィクションのストレートな楽しみとしても本作をお薦めできます。
『グリッドマン ユニバース』の原作の特撮版『電光超人グリッドマン』なんかだと、異世界であるコンピューターワールドをミニチュアという「実物」を「前提」で演出した、逆転の発想によるリアリティがあったりして、映像の面白みとしても評価できました。しかし、筆者は作品評論において「前提知識」を受け手に求めすぎる方針は好意的に評価しません。上記の『ゴジラ』の状況のように「知識ある人をターゲットにした作品」とのっけから絞って世間へ発表する分には問題はないですけど、ならば猶更、発表形態も多彩な現代は「知識のない人にどうアピールするのか」を考えないで押しつける作品創りはナンセンスです。「理想の軍艦」を「ミニチュアという手作り」でアピールした方針はまさに特撮ならではの表現であり、アニメなどではできない方針です。『グリッドマン ユニバース』『GAMERA -Rebirth-』で再現されたのも「特撮で手作りだった”理想”の再現」だった訳で、「『海底軍艦』のような方針はアニメではできないから」と割り切って「絵にして”特撮を知らない人”にも分かり易く伝えた」のです。特撮にはないアニメの魅力は「誇張してシンボルにした表現」ができることでもあり、「特撮でやっていたこと」をそのアニメ表現の利点を「明確な前提にして」掘り下げたと、特撮のアニメ化作品を筆者は評価しています。そして、「ミニチュアという”実在感”を”前提”として」魅力的に映る『海底軍艦』に、特撮としての本質的な味わいがあるとも改めて考えるのです。
アニメと特撮の違いについての話だけではなく、「特撮という作り物でまとめた世界」の在り方について、『ラドン』と併せて考えておきたい部分が、「”フィクションでのリアル”は”その世界の中で理屈が通っているか”に集約される」点です。昭和の東宝特撮は、ミニチュアとかが「それがリアル」と納得させてしまうことを前提にしているような映像となっていて、本編もそのトーンに合わせてる感がありました。一方で平成『ゴジラVSシリーズ』は、川北紘一特技監督による重厚なハイスピードカメラの撮影で「まあリアルだろう」と誤魔化されている感もあり、それが上記の『平成ガメラ』ファンとの議論の的になっていたのです。だからこそ、昭和から平成になろうとした頃には『仮面ライダーBLACK』で「それ自体でリアルを感じられるようなレベルの怪人造形」を達成したり、『ウルトラマンパワード』で「日本の表現力とハリウッドの技術力で理想とも言えるくらい丁寧な特撮」を魅せたりということもできていたことは大きかったと思います。令和になろうとした頃から「そこまでやれたのだから」とアニメにも目を向けたことで、温故知新としてかつての特撮の価値も引き出したとも筆者は見ています。山崎貴監督が『-1.0』で描いたのは、終戦から「誰もが幸せでいられる理想」の未来を夢見ていた人たちだったであろうことも踏まえ、リアルな理想を特撮に追い求めた『海底軍艦』も紹介したかった次第でした。
『HOUSE ハウス』―映像のおもちゃ箱
最後の紹介は趣を変えましょう。
広島県は尾道での映画制作も有名な、CMディレクター出身で異色の巨匠と言われた大林宣彦監督の『HOUSE』は、特撮関連書籍でもよく紹介されます。一方で、特撮の在り方を巡り、「アニメーションも駆使した」作品を特撮と認めない人もいます。また、「映像自体を楽しめ!」と言わんばかりの内容に、当時は酷評する評論家が多数いたことも有名です。ピアノが女の子を食べたりといった場面は今でも話題になりますが、当時のレベルで言っても「明らかに作り物」なのがはっきり分かる映像であり、そこが好き嫌いを分けました。
『ウルトラマンレオ』の足が赤く作画合成されたレオキックなど、「ハレーションのような”映像としての現象”」すら特殊技術で再現してしまったような映像も、昭和の特撮には度々見られました。そこに慣れたからというのもあるのか、筆者はリアリティ重視ではない形での映像表現も好きではあるし、『HOUSE』が特撮として扱われることに違和感も持ちませんでした。寧ろ、大林宣彦作品がメジャーになっていった中で特撮のフィールドに位置した紹介がされるのも面白いのでは、と考える人間なので。この後円谷プロとタッグを組んで『可愛い悪魔』『麗猫伝説』といった作品をかの『火曜サスペンス劇場』で発表したりもしている大林監督ですが、上記の2作品などで円谷英二が広げていった「有り得ないものを見せるための表現」の方針は、『HOUSE』での豊かな画作りで「ビジュアルだけ楽しむ」新たな方向性を与えられたと言っていいはずです。
「映像のプライオリティ」という意味でも『HOUSE』で分析できる部分があります。予告編でも流れた「生首が御尻を噛む」シーンを例に出すと、「その生首に寄って」撮ったりはしていなかったことに筆者は着目しています。まあご存知の方もいらっしゃる通り、セクシャルな場面も多数ある作品ではあり、分かり易い画作りをそんな場面に求めたら生々しいにもほどがあったでしょうから、当然と言えば当然ですけども……ただ、キャメラによって撮影された映像は、創り手の「ここを見て欲しい」が表れるものであり、それが怪獣映画とかであっても「怪獣をこういうアングルで撮るのは定番だよね」といった話にも繋がっていくのです。つまりは「怪獣の特徴的な部分を表現するならどうしてもアングルにセオリーが生まれてしまう」訳です。「そりゃ生々しいから尻に寄った画を撮ったはしないよ」という単純な視点でも、映像演出に込められた作り手の「意思」が見えてくることに意味を見出す価値はあると考えていただきたいのです。それこそ日本的な感覚を紐解けば、能だとか人形劇とかは、仮面を被ったり誇張した部分もある人形を動かしたりして、その「意図」からバンバン演出するものですから。
大林監督が『HOUSE』で大活躍したことで、『-1.0』で(ゴジラが出てこない)戦後間もない日本の場面も、或いは『SSSS.GRIDMAN(アニメ版グリッドマン)』に挿入された実写の新条アカネも、それ自体がある意味「特撮」であると考えられなくもないという、セオリーを超えた状況を生み出したと言えます。一方で、『海底軍艦』の項目で述べたような歴史もあるので、「リアルな感覚に震えること」「空想として解釈を楽しむこと」の片方に寄らず、双方共が尊重された形で日本の映像文化が育ったことは、筆者はよかったと思っています。まあ裏を返せば「ミニチュアとか着ぐるみを使った」ものを特撮として特別視し、上記の「セオリー」を持ち出すような形でマニアックな方針に押し込んだ部分もなくはなかったと思いますけど、それこそ『-1.0』などが『ゴジラシリーズ』と区切られた映画を熟成させていたとも言えるので、その功罪も、東宝の映画制作に飛び込んできた大林宣彦という監督から分析しても面白いのかも知れません。