言葉を改めて見直すために

「読む」ことを考えさせられる名書5選

 

1972年のあさま山荘事件を語る時、事件の詳細や裏側以上に「鉄球を山荘にぶつける映像の迫力が今でも忘れられない」という感想や「極寒の中で機動隊員が食べている姿を報道したことでカップラーメンが一般的に広がった」という豆知識が上がることが多い。フラッシュバックするインパクト、或いは世間における受容は、メディアを通して受け取った際に本質的重要性を無視して個人にイメージを落とし込んでいる証左である。その是非を問うには、多彩な視点での漏れのないディベートが必要となり、且つ「公の場でその感想や豆知識だけ”面白がる”」といった、状況に応じた行為を問題視することになるので、ここで無責任に論考はしない。論考するのは、歴史上の事件のような扱いに対し、付加価値というより、本質から翻って重点が単純化されたことで、社会的影響が取り沙汰される状況自体に存在する、意識して分析したい人間のフィーリング方針である。
人間の伝達手段において、「言葉」とは世の中に存在するものを他人と共有するために作られたものであるため、それを組み直し視覚化した「文章」は、「実物」というビジュアルでの明快さはない代わりに、「音声」だけで伝えられた際に欠損してしまう情報共有の具体性は保証される。ただ結局、組み直しアウトプットされたその文章についても、「どうしてこのような構成にしたのか」と読者が気にした際に多彩な解釈が発生する。だからこそ、「読書」して吐き出される感想は、フィーリングによる「重点の単純化」を最も端的に示すとも言えまいか。
本項目で紹介したいのは、小説というフィクションではない形での文章で、その「重点の単純化」に豊潤な内容を込めたと筆者が評価している作品となる。内容以上に「ことば」自体に目を向けて読書を行うのもまた、この社会で構築される文化に新たな目線も持つことができると筆者は信じる。
※本項目では、敬称は省略いたします。

 

『ユートピア』

トマス・モアは、イングランドの思想家として「理想郷」をこの『ユートピア』で書いた。つまりは社会風刺としての意識で書かれた本ではあるのだが、今となってはそれこそ「理想郷についての在り方」に浸る読み物として見られている。
こういった受容は、『ガリバー旅行記』が「産業革命に対する批判」がテーマだったことをスポイルして広がり、「作中に出てくる『ラピュタ』がジブリ映画のモデルになった」といった話題の方が有名になったのと同様で、冒頭の話に繋がる部分ではある。その理想だけを楽しむため読むのは有益だと思うが、「理想郷」の考え方について一つ、大きな議論になることがある。
ギリシア語の「ou(無い)」と「topos(場所)」を組み合わせた「ユートピア」は、つまりは直訳すると「どこにもない場所」となり、「ないから理想」という意味を持つ。その「理想」を考えた時、日本では短絡的に「しがらみのない、全く現実とは違う楽しい場所」としてのイメージを持ちがちだが、それこそモアの『ユートピア』に書かれているもの自体も「現実にあるものが発展した」ことで理想になっている。実際、モアの職業と立場が上記の通りで、政治的議論のために『ユートピア』を書いたのは間違いないし、現実の在り方を無視してまっさらな理想を求めすぎるのは日本人の良くない部分だという意見も多い。
少々雑な言い方をしてしまうが、「文章」で描けるもの自体も「現実からの比較」でしかない。世の中の学問でも、「本当の意味で」現実にないものを考えられるのは精々、虚数などで計算ができる数学だけだろう。文章に多彩な意味を考えること自体は重要である。それとは別の問題として、学問などの本質的な在り方を無視してはいけないと、筆者は言いたい。「相対性理論」は、アインシュタインが「光の速度を”固定”」することで生み出した理論であり、科学でも「固定」することで他の視点を探せることもある。この考え方は寧ろ多様性を大きく広げることになるので、強く意識して欲しい。

  

『できるできないのひみつ』

『学研まんが ひみつシリーズ』は、あるテーマについて漫画形式で詳細に「ひみつ」だと思われているものを解読し、子どもの知的好奇心を刺激してくれる内容を提供しているのだが、その中ではかなりアバウトなアプローチで書かれたのがこの作品であり、タイトルだけで「何の『ひみつ』なのだろう?」と思った子どもは筆者だけではないと思われる。
要するに、世の中で「何かやろう」と行動するとき、科学的に「canかcan'tか」を分析しているのだ。例えば「地球の裏側に掘り進むことはできるのか」という話題に対しては「重力の基準となる”地球の中心”に人がいるとどうなるのかも重要になる」「そもそもその掘る土の”硬さ”も問題になる」と解説している。「世の中にあるものとはどういうものなのか」「物理科学という分野で何を解析できるのか」と追求する視点は、大人になっても忘れて欲しくない感覚だと筆者は考える。
「理科」にこのような「視点」を採り込んで物事への興味を刺激した上、『ひみつ』シリーズの中でタイトルだけでもひときわ異色の立ち位置を得た本書は、内山安二による漫画のビジュアルを持ちつつも「そのタイトルという”ことば”でも世の中をアプトプットする」本質的な面白さも追求できたと評価していいだろう。学生の間でも好き嫌いや受験上の優先順位が分かれる科目ではあるが、「現実の裏に潜む理論」を考える理科の面白さは、改めて見直してもいい。
少々余談だが、学年が上がるにつれ「理科」という科目名で勉強することもなくなり、「物理」「化学(ばけがく)」「生物学」と学ぶ科目の選択も行った経験は社会人ならおありだろうが、それぞれの分野で着目する部分が大きく異なり、一括りに「科学」と考えても分析できない部分もあるため、「科学」は研究者としても専門性が大きく分かれる分野だとよく言われる。その意味では、幼少時代に多方面へ興味を持って、「それぞれの科学」を学ぶのも一つの醍醐味だと考えられる気はする。

 

『ミステリ百科事典』

本書は名目上で「事典」と言っているだけで、間羊太郎が世界の古典推理小説を分析した評論となる。しかしながら、文庫版にして京極夏彦作品並みの分厚さで緻密な紹介を行い、推理小説の楽しみを存分に詰め込んだ本書は、「単語の意味を調べる」辞書や「世の中の物事の性質を調べる」図鑑に匹敵する充実感を読者に届けているので、「事典」が全く名前負けしていない。その時点でもお薦めできる。
再版時の解説などで「この『ミステリ百科事典』での紹介が面白過ぎて、紹介作品を本当に読むとあまり面白くなかった」とまで言われるほど、「古典」と言われる作品は豊かに紹介された。所謂ネタバレも多々あるため、手放しに読んで欲しいと言いづらい作品ではあるが、「物事を”紹介”する文章」としては本書に勝るものはなかなかない。
怖がることが面白い「ホラー」などとは違い、「謎を解く」ことに面白味がある「推理小説」は、そのために色々な決まりを固めた。一方で、「セオリーを固めすぎて呪縛に捕らわれている」と言われることも多く、ジャンルとして独立的で閉塞している感も強いので読者の好き嫌いを分けている。筆者は、「推理小説の決まり事」の例である「ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」の一部はもう意味を成さないと思ってはいる一方、上記のように「縛ることで見えることはある」と考えている分「縛らないことで”全く別分野のもの”として扱って新しい創造ができることもある」とも考えている。小松左京の『日本沈没』が日本推理作家協会賞を受賞したことに笹沢左保らが反対した事件も、確かに「推理小説の幅を無意味に広げる」風習を作ったならば小松自身の作家としての功績に傷が付いただろうと考えられる出来事だったと思う。厳密な「定義づけ、ジャンル分け」はこのような状況で大切だから、『ミステリ百科事典』で「推理小説の独立性」を堪能できる意味は重要視したい。

 

『自家製文章読本』

『ひょっこりひょうたん島』などでお馴染み井上ひさしが書いた文章指南書を紹介したい。「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に書く」をモットーとしていた作家の、読書経験からくる文章の在り方・日本語の知識が詰め込まれた逸品であり、ひさしらしい軽妙で分かり易い文章で書かれた指南書なので、ここで紹介している本の中でも特に、詳細な解説を行うより実際に読んでいただいて、その意図と方針を意識してもらう方がいいと思っている。今回は、大学時代に読んだ筆者として強く触れておきたい部分があるので、ひさしが感じて書いていた部分から筆者の分析を述べさせてもらう。
「優れた文章は”文章を感じない文章”なのか」と議論している箇所があり、ひさしはそれに否定的な見解を記載している。冒頭で述べた「言葉の存在」をシンプルに考えて、大学生の筆者も「”文章を感じる”からこそいい文章になる」側面は強くなると結論付けた。「他者との共有」のために生まれた「言葉」だから、「それを感じないように文章を書いた」ところで根本的な魅力になるとは考えられないからである。それ以上に、たった一つの単語に目を向けた読者が、文章で書かれた以上の「時間の経過」「単語の重要性」を感じることがあることに、文章表現の広がりは生まれる。ある物語で食事のシーン一つを描くにしても、映画であれば役者に食べてもらって「ただ食べている」状況にできるが、小説で「どんな料理が食卓に並んで……」と記載していくと具体的な単語となって読者の目に入る。それが、ビジュアルを持たない「文章」ならではの表現方法であり、「カメラを意識させない」映像はできても「文章を意識させない」小説は書けないと、筆者が抜本的な部分から言い切る根拠でもある。
『ユートピア』の項目で半ば諦めのようなことを書いたが、それもひさしの分析のように「徹底的に」考えた末の結果であれば、致し方ないことなのである。

 

『耳こそはすべて』

最後に紹介するのは、名実ともに世界一のロックバンド・ビートルズの支えになった人物についてだ。デビュー前からマネージャーとして支えたブライアン・エプスタインと併せて語られる、プロデュースでの支援者がジョージ・マーティンであり、ジョン・レノンが作った『愛こそはすべて(All You Need Is Love)』をもじったタイトルでマーティンが出版した自伝が『耳こそはすべて(All You Need Is Ears)』である。
コメディテイストのレコード制作に明け暮れた日々、ビートルズとの出会い、金銭面も含めたレコード会社との対立などが書かれている本書で筆者が注目したのが、これだけの世界的実績を残し、音楽的知識も豊富に持っていた人物でありながら、音楽的理論やビートルズの売り出し方については大した文面を割いていないことだった。音楽的理論も、「こうは言ってもやり方は一つではない」と片付けている部分が大半である。
『ユートピア』の項目で述べた「縛り」は考慮する必要はない、完全に感覚だけの「音楽」の世界で生きてきたからこそこのような書き方にしたと考えられるし、または世界中のビートルズファンにプロデューサーとして話をする上では「理論に興味を持ってもらえないだろう」と考えたのかも知れない。何れにせよ、マーティンが生きてきた中で考えたこと、ビートルズに時に厳しくあたり時に振り回されていた経験を素直に書いていたこの本は、伝記を読む人が求めているであろう「一人の人間の人生として面白いもの」がナチュラルに文章化されており、「ビートルズより前の音楽は古臭く、それより後の音楽は二番煎じ」などと言うファンも多い、世界的な音楽の基準とも扱われるビートルズをプロデュースという視点で見てきた男の感覚を楽しむことができる。

 

意図的に紹介作品の分野を偏らせたりしながら、筆者の「文章論」を書かせていただいた。ネットが発達して素人でも文章を発信する機会を得られるようになり、AIも文章を書けるようになって芥川賞にも影響を与えた時代で、手のぬくもりをクリアな媒体で伝える努力はなおさら怠ることはできない。個人個人の微妙な感覚を未来永劫消えることはない形にできるのが、文章の魅力なのだから。

 
https://ob-g.com/corpo/
Objective Group
Logo