第8部 未来へ……

 
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中田邸は今、静かに佇んでいた。染み付いた醜聞はどうあがいても拭えず、いくつもの悲劇の温床として、世間の視線を浴びる日々が続いている。
恵理子は、じっとこの屋敷と美術館を眺めていた。わずかな期間だけ暮らしたこの屋敷で、人並みよりいい生活をしたけれど、ただ少し高い目線で世界を見ただけで、あまり贅沢だと思える日々を過ごしたとは思えなかった。元より、そんなことを望んで、中田礼二と結婚しようと考えた訳ではないが。
「若奥様よ、相続の手続きは済んだのかい?」
誰かが声をかけ、恵理子が振り向く。その声の主は、生前の礼二と対立していた男だった。
「戸上さん、どうしてここに?」
屋敷をちらっと見てから、戸上は恵理子に視線を戻した。
「あの人の遺産がどうなっていくのか、時に邪魔もされていた立場の人間としても、ちょっと気になってね。まあ、嫌味っぽいだろうが」
「いえ。この屋敷はもうすぐ、国のものになりますし」
「おや、相続を放棄するのか」
戸上は少し驚いたようだった。恵理子は頷いて答えた。
「ええ。中田フーズの経営権は別の人に渡っていますし。それ以外の遺産は、親族がいない以上、私が相続権を持つようですけど、変わったばかりの名字がまた元に戻った女子高生ですから、荷が重いです。あの人と結婚したことを自慢したいのではなく、普通の家庭とは少し違った世界で、ちょっと違う景色を見たかっただけですから」
「賢明な判断かもな。若いうちは、気分だけで生きるのもいい。下世話だが、相続税や固定資産税とかも処理しなくてはならなくなるだろうし」
二人は黙った。年が明け、この屋敷が生んだ悲劇に全てけりが付いた中、それらの出来事は関わった人々の記憶にだけ残っている。
沈黙を破ったのは戸上だった。
「……ここに来たのは、川蝉食品の社員としてではないんだ」
「え?」
振り向いた恵理子の髪が、少し激しく揺れた。戸上は新聞記事を見せ、苦笑いする。
「この前俺が、新聞に投稿した密室トリックだ」
「投稿?」
「昔、推理小説を書いていたことがあってね。実を言うと、中田礼二があんなトリックを実行していたという話を聞いて、ちょっとだけその時の情熱が蘇った気がしたんだ」
「じゃあ、海城さんの推理に付き合ったのも……」
「個人的な興味からだ。仕事上でも対立したあの男が、まさか俺が昔夢中になっていたようなトリックを考え、事件まで起こしていたと知って、全ての意味で先を行かれているような気がしたんだ。そのあたりは、井沢さんも同じだったようだ」
ふと出てきた名前に、恵理子が反応した。
「井沢さんが、どうかしたんですか?」
「ほら、あの人に裕子さんを紹介したのは井沢さんだっただろう。しかも、星空を見るのが好きだったのも、元々は井沢さんからの話を聞いたことからだったらしい。30年前の事件について、井沢さんも他殺の疑いを持っていたようで、あの夜、礼二さんを問い詰めてしまったようだ。――気持ちは分かるが、菊枝さんを含めて周りの人のことを考えると、嫉妬も込めてこっそりとサシで話すというのは、ちょっと配慮がなかったとは思うね」
「……そうなんですね」
「どうでもいい話だったな。もう失礼するよ。警察に説教を受けてから、また仕事に精を出さなければならないからな」
「説教、ですか?」
恵理子が眉を少し上げた。
「この投稿を送った時にな、あの溶接密室のトリックも、警察に先行して話してしまったんだ。まあ、ちょっと大人げない嫉妬、って感じだな。尤も、あの名探偵にこのことも暴かれてしまったけどね」
「海城さん、そんなことまで調べていたんですか?」
「信彦君といったか、君の同級生と一緒に、俺に会いにきたよ。――全ての意味で、俺の負けだ。じゃ、そんな大人は消えるよ。君は君で、自分の人生を生きるんだ」
微笑みながら去っていった戸上の後ろを、恵理子は一生忘れないような気がした。まだ酒も飲めない年でこの屋敷で見た光景と併せて、遠い星のように遠くのものだと思っていた、大人の苦い世界を、彼なりに生きていることを理解できたように思った。
そして、大人の世界をまっすぐに推理した名探偵のことも、改めて思い出した。

浅草・通り (夕方).jpg
夕紀は、明日香からの連絡を読んでいた。今年は進学のための勉強で、事務所に訪れる時間は減るようだ。貧乏な暇人としては、寂しいようで、煩い人間が減って楽になるような、複雑な気分だった。
ついさっき、信彦と共に、新たな真実をまた暴いた。信彦はメディアを通した人間の発言について『不気味の谷』という概念から考えていたが、探偵として向き合ったのは、そんなことが通じない、生身の人間の真実だった。
二人の人物が罪を償っている中、それ以外の人も未来に進んでいることに、夕紀は少し安堵していた。輝く未来を失った人もいるけれど、今生きる人の世界はまだ終わらない。そしてその未来は、遠い星での出来事でもない、身近な真実となっていくはずだ。
――まあ、俺の生活は当面、変わることはないかな。
浅草の街を見ながら、夕紀は吹き戻しを咥えた。
〈完〉
 
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『名探偵・海城夕紀』